個人情報保護とリスク社会

2005-07-07 jeudi

学士会からアンケートが来て、学士会会員名簿に「住所、電話番号、メールアドレス、職業、勤務先」などを情報公開してよいかの諾否を訊ねてきた。
個人情報保護法が実施されたことにともなう措置のようである。
名簿というのはそういう情報を検索するためのツールであり、氏名以外は非公開などということをした場合には、そもそも名簿として機能しない。
私は「すべて公開していいです」と返答したけれど、「すべて非公開」を選ばれた会員の方も少なくないだろう。
氏名以外の個人情報がすべて秘匿された白っぽい名簿なんか作っても紙資源の無駄であるから、遠からずどのような団体についても「名簿」というものがこの世から消えるのであろう。
すでに本学からも「学生名簿」というものが今年からなくなった。
だからゼミで自己紹介したときに本人が告げた個人情報以外のものを同じゼミの学生も指導教員である私も持たない。
先日、「方言」についてゼミ発表があったが、そのときに「キミはどこの出身?」と私がひとりひとり質問したので、そのときはじめてゼミ生たちはおたがいの出身地を知ったのである。
個人情報が組織的に保護されるには、情報の悪用を防ぐという事情があってのことだと説明されるので、誰もそれには反論しない。
けれども、そのようにして名簿をこの世から消し去ることから得られる利益はそれによって逸失される利益よりも大きいと断言できるのであろうか。
私にはそのようには思えない。
それは「緩衝帯」としての中間的な共同体を解体し、個人と社会がダイレクトに向き合う「リスク社会」化に加速することにしかならないと私は思っている。
私たちは個人である前に家族の一員であり、大小さまざまな規模の共生体の一員である。
「個人である前に家族の一員である」というようなことを書くと、「家父長制的イデオロギーだ」というようなこと言い出す人がいるだろうけれど、こんなことは誰が考えても自明のことである。
家族の一員である「前に」個人であるような人間はこの世に存在しない。
私は「私はウチダタツルです」という名乗りをするより先に母子癒着状態の中でちゅうちゅう母乳を吸う口唇の快感に焦点化した存在として出発した。
そもそも「自我」という概念が獲得されるのは鏡像段階以降なのであるから、それ以前の私には「私」という概念が存在するはずがないのである。
起源に自我があるわけではない。まずアモルファスな共生体があり、自我はその共生体内部で果たしている分化的機能(家族内部的地位、性別、年齢、能力、見識などなど)、に応じて、共生体内部の特異点として記号的に析出されてゆくのである。
「個人情報の保護」という発想の根本には、「まず」個人が存在し、それが周囲の共生体と主体的に関係を「取り結んでゆく」という時系列が無反省的に措定されている。
だが、これは事実ではない。
イデオロギーである。
個人情報保護はその「政治的に正しい」表層の下に、私たちの社会を根本から蝕んでいるあるイデオロギーを蔵している。
それは「私」こそが自己決定・自己責任的主体であり、つねに主体であり続けねばならないという「物語」である。
これが「リスク社会」における「自我の物語」であるということはこれまでに何度か申し上げた。
そのイデオロギッシュな物語がどうしてこれほど熱意をこめて語られるのか、その理由についても書いたことがあるが、もう一度繰り返す。
それはこの「強い主体の仮説」を全社会的に採用する限り、「リスクヘッジすることができる主体」は勝ち続け、できない主体は負け続けるからである。
ポジティヴ・フィードバック。
勝つものが「総取り」する社会。
それが「強い主体の仮説」のめざすものである。
「リスクヘッジすることができる強い主体」とは、まこと皮肉なことであるが、自己決定を下さなくてもよく、自己責任を負わなくてもいい主体のことなのである。
彼らは「閨閥」「門閥」「学閥」をはじめとする無数の地縁血縁共同体や利益共同体のネットワークにしっかりと絡め取られ、その中で自己決定・自己責任の権限のかなりを共同体に委譲する代償として、潤沢な権力・財貨・情報・文化資本を享受している。
当たり前のことだが、「リスク社会」で圧倒的に有利なポジションにあるのは、「内輪のリスト」に名簿登録されており、無数の中間的共同体がリスクヘッジをしてくれるために、主体的にリスクをとる必要のない人間なのである。
それをふつう「強者」と私たちは呼んでいる。
強者が勝ち続け、弱者が負け続ける社会システムを強者は構築しようとする。
当たり前である。
そして、しばしば弱者は「弱者が負け続ける社会システム」を構築することについては強者以上に熱心なのである。
「リスクヘッジ」とは「〈私〉の存在があまりに深く周囲の他者の生き方にコミットしているために、〈私〉の利益の増大と損害の回避をつねに周囲の人が〈私〉以上に真剣に配慮してくれるような状態」のことである。
それが自己決定=自己責任の物語の対極にある生存戦略なのだが、「リスク社会」ではこの戦略の有効性を弱者には誰も教えない。
--------