微熱の中で

2005-07-06 mercredi

大学院の面接のために午後遅くに大学までゆく。
微熱が残っているので、すこしふらふらする。
面接する学生は4名。
口頭試問だけなのだが、A4一枚の研究計画書を読んで、数分話すだけで、研究者としての適性はだいたい測定できる。
「研究者としての適性」とは、ひとことでいえば「開放性」である。
外部に向けて開かれていること。
それに尽きる。
それは社会人としての適性とほとんど変わらない。
だから、私の知る限り、すぐれた研究者はたいていは成熟した社会人である(ビジネスマンになってもちゃんと出世されたはずである)。
逆に、ろくでもない学者はたいてい幼児的である。
日本の学者の相当数は幼児的で、粘着的で、閉鎖的である。
それを「学者に固有の属性」と思っている人がいるが、それは勘違いというものである。
その勘違いこそ日本が知的立国において先進諸国に大きくビハインドを負っている理由の一つなのである。
もちろん、幼児的で粘着的で閉鎖的で狂気と紙一重の「マッド・サイエンティスト」のもたらす科学史的ブレークスルーの存在を私とて否定するわけではない。
しかし、「真性マッド・サイエンティスト」は遠目でもそれとわかるほどに強烈に怪しいオーラを発し、あたりの気の秩序を攪乱しまくっているので、保身の術に長けた私が「それ」を見逃すはずがない(即、逃げる)。
それゆえ、私が出入りするような穏健な学界で「幼児的で・・」(以下略)を見かけた場合は、「ただのバカ」に分類して過つことがないのである。
大学院の面接も、学生の社会的成熟度を見るという点では、就職試験と少しも変わらない。
私がビジネスマンだった場合にその学生が来年四月から来る「新入社員」として使えるかどうか、それを基準に私は院生を査定している。
「使える」というのは何か特殊な才能や技術を「すでに」有しているということではない。
「まだ知らないこと」を「すぐに習得する」ことができるかどうかである。
学部教育程度で身につける学術的な知識情報のほとんどは「現場」では使いものにならない。
だから学部教育が無意味だというようなことを言っているのではない。
見なければいけないのは、大学でその知識情報を身につけるときにどのような「ブレークスルー」を経験したか、である。
もしその学生が中学生・高校生のときに設定した知的枠組みを少しも壊されることなしに、無傷で大学四年間を過ごしてきたとしたら、そのような学生はどのような種類の仕事であれ(ビジネスであれ、学問研究であれ)適性を欠いている。
この知識技術を身につけておくと「金になる」とか「就職に有利」とか「偉そうにできる」というような幼児的な動機で勉強している学生は、どれほど努力しても、それこそ体が壊れるほど勉強しても、それによっていかなるブレークスルーも経験することがない。
ブレークスルーとは「脱皮=成熟」ということだからである。
一度でも脱皮=成熟を経験したことのあるものは、脱皮=成熟が「どういうこと」であるかを知っている。
経験したことのないものにはその感覚がわからない。
自分の知的枠組みの解体再構築を喜ぶのは、ポストモダニストが言うように、エゴサントリックな知的秩序を自己審問することが知的=倫理的だからではない。
単に「それが楽しいから」である。
だから、私が若い人の成熟度を判定するときは、「その人がそれまで聞いたことのない種類の言葉」を聞いたときに「耳をふさぐ」か「耳を開くか」その瞬間的な反応を見る。
「知らないことば」にふれたとき「思わず微笑んでしまう」かどうかを見るだけで成熟度の判定には足りるのである。
本日のおことば(微熱の中で読んだ橋本治先生の近著『橋本治という行き方』から)

「私は子供の時から、店先に座って店番をしていた。それをすることになんの疑問も感じなかった。私の人生は、学校に行くことより、まず『店先に座って店番をしている』から始まった。なぜ店番をしているかと言えば『客が来るから』である。客が来るのに、それに対応する人間がいなかったら困る。『客が来たら “お客さん!” と呼べ』と言われた子供が店先に座っているのは、『客とは来るものである』という前提があってのことである。」(17頁)
「古典芸能の世界で、門外漢の『どうしたい』という主体性-主体的欲求は、あまり大きな意味を持たない。もしかしたら『邪魔』でさえある。古典芸能の世界でなにかをするとしたら、まず『この世界ではどうあるべきか』を考えなければならない。主体は『やる側』にはなくて、『古典芸能』の側にあるということである。」(26頁)

この二つの引用で橋本先生はほとんど同じことを言っている。
「客」は「私は主体だ」とうるさく宣言して、出歩く主体のところには到来しない。
「客」を迎え入れるためには(アブラハムが砂漠のはずれに幕舎を張ったように)まず「現場のきまり」を知るところから始めなければならない。
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