「私」はパブリック・ドメインの住人

2005-07-04 lundi

帝塚山大学と日本著作権教育研究会共催のシンポジウム「教育現場における著作権問題を考える」に出席。
どうして私のような人間に著作権問題のシンポジウムからお呼びがかかるのか謎である。
私は著作権についてこれまでほとんど発言らしい発言をしてきたことがない。
「コピーライツという考え方はよろしくない」ということを時々発作的に申し上げているが、それはロラン・バルトやジャック・ラカン以来の、「私が語っているとき、私の中で語っているのは〈他者〉である」という「現代思想の常識」テーゼを繰り返しているにすぎない。
だいたい私のところに印税の支払いがくるテクストについていえば、その過半を私は書いた覚えがない。
たぶん私が書いたのであろうことは、文体や行間ににじむ非道な思考から伺いしれるのであるが、実のところよく覚えていないのである。
自分がした覚えのない仕事、「今書け」といわれても二度と書けないようなものについて対価を受け取っているわけである。
なんだか「すまない」という気がする。
まして、私の一文が入試問題に用いられ、さらにそれが過去問集や予備校テキストに二次利用されて、数千円から数万円の印税を受け取るときには、「里子に出した顔も忘れた娘が苦界に身を落として実の父に仕送りをしている血のにじむような金」を収奪しているような気分になるのである。
「すまない」
とその金で買ったワインを啜りながら、「父」はつぶやくのである。
いつまでも苦労させて。
オレのことはもう忘れてくれて、おまえにはおまえの幸せを探してほしい。
しかし、私がいくらそうつぶやいても「娘」は仕送りを止めない。
しかたがないので、「父」はこりこりと原稿を書いて、まだ見ぬ未来の「私」あてに仕送りを「転送」することになる。
私のところで費消し尽くしてはなんだか申し訳が立たない気がするからである。
「コピーライト」というのは、そういう「時間差」感覚をともなうものではないかと私は思う。
ほんらいなら印税を受け取るべき「過去の私」から「現在の私」が「収奪」していることの「やましさ」が私に次なるテクストの生成を動機づけている。
それは「済んだ仕事」に対する対価ではない。
なぜなら受け取るべき「私」はもう過去の人であり、「今の私」にはそれを受け取る正当な権利があるようにはどうしても思えないからである。
私はその「やましさ」を、さらにテクストを書き、それを未来の私に転送することによってトレードオフしようとする。
コピーライトが「知的財産の創造」を励起するとしたら、その理由はこの「時間差」のもたらす負債感のうちに棲まっているのではあるまいか。
アチーブメントに対してただちに報酬が与えられた場合に、人間は労働への動機づけを失う。
これは経営学の基本である。
それは哲学的に言い換えれば、「時間」という概念を挿入しない限り、人間は「人間的」になることができないということを意味している。
コピーライトは「権利」ではなく、むしろ時間差がうみだす「負債」の感覚をかき立てることによって文化の富裕化に寄与するのではあるまいか。
「ウチダさん、またそういういい加減なことを・・・」と苦笑するマスダくんの顔が思い浮かぶ。
でもね、マスダくん。著作権をめぐる議論をいくつか瞥見したけれど、製作と対価受け取りの間の「時間差」がもたらす「私の知的財産」に対する「私の気後れ=著作権者意識の希薄化」の感覚について言及したものはないように思えるのだが、どうであろう。
経済行為を無時間モデルで考える限り、コピーライトは「権利の退蔵」「これ以上のリスクの回避」「あとは遊んで暮らしたい」傾向を強化するばかりで、「さらなる創造」を動機づけはしないように私には思われる。
現に講演のように「とっぱらい」でゲンナマが渡される場合、私の態度はあきらかに「できるだけ早くこの場から逃亡し、聴衆全員にはすみやかに私のことを記憶から抹消していただきたい」というものになり、「もう一度ここに戻ってきて、この人々ともう一度めぐりあい、一緒にもう一仕事したい」という意欲は有意に減退するのである(東京富士大学からの私の「逃げ足の速さ」はご記憶に鮮明であろう)。
そのようなことをシンポジウムで申し上げるつもりであったが、持ち時間が10分しかなく、そのようなことを言い出した日にはわけのわからないことになるので、ごく簡単に「パブリックドメイン論」をお話しする。
本日のパネリストたちは、高校の先生方は当然ながらテクストの教育目的のための利用に著作権の縛りがかかることに困惑されていた。
私とともに「著作権者」を代表して発言された林忠夫さん(画家&エッセイスト)も「作品はパブリック・ドメインに置かれて、フェアユースに対しては原則的に自由に開かれるべきである(なぜなら、私たちが「自分のオリジナル作品」だと思っているもののほとんどは先人の「コピー」あるいは「パスティシュ」であり、私たちにできるのは、レスペクトを以て先行作品に接することだからである)」というものであった。
私もまったく同感である。
シンポジウム自体は文部科学省の「現代GP」に採択された「知的財産権についての意識を高め、高度専門職を育てる」帝塚山大学の教育プロジェクトの一環だったわけだけれど、パネリストたちの発言はどちらかというと「知的財産権とか、そういう『せこい』ことをがたがた言っても、あまり社会は住みよくならないのではないか」という反文部科学省的な内容のものであったので、帝塚山大学のみなさんには、なんだか申し訳ないことをしたような気がする。
しかし、企画を立てた日本著作権教育研究会的には「入試問題の二次使用の許諾についてうるさいことを言わない」著述家がマジョリティになることは好ましい傾向である。
私にしても、「あ、ウチダさんね、この人は著作権についてうるさいこといわない人ですから、どんどん入試に使っちゃっていいです」というかたちで若い読者と(試験会場や予備校の教場とはいえ)遭遇できる機会がふえることは、ありがたいことである。
「過去の私」がおそらくは一人でも多くの人に読まれるために書いたはずのテクストである。
それが複製される機会を「今の私」が制限しては、「過去の私」にあわせる顔がない。
「私のテクストは竈の灰まで私のものだ」
というような考え方をする人間と私が意見が合わないのは、「私」という概念が私の場合はずいぶん可動域が広いということに起因するのである。
わかりにくい話ですまない。
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