コミュニケーション失調症候群

2005-06-30 jeudi

ある雑誌に「コミュニケーション失調症候群」というタイトルで短い文章を書いた。
その掲載誌が送られてきたが、字数計算を間違えていたので、半分くらいに削られていた。
雑誌自体も専門的なものでふつうの人はまず目にする機会がないであろうから、ここに転載して諸賢のご笑覧に供するのである。

大学でのセクハラ、アカハラにどう対処するのかということが問題になっている。
本学でもこれまでにいくつか事件があった。
これらの事件には私たちの社会全体に底流しているコミュニケーションについての深刻な「勘違い」が露呈しているように思われる。
人々はコミュニケーションについて、何か根本的な誤解をしてはいないだろうか。
「適切なコミュニケーション」とは「言いたいことを適切な言葉づかいで明確に語ること」だと思っている人が多い。でも、ほんとうにそうだろうか。
この種の事件でいちばん頻繁に聴く弁明は、「私はそんなつもりで言ったんじゃない」「私はそんなつもりでしたんじゃない」という言葉である。
「つもり」と「言葉」の乖離がすべての事件に共通している。
私自身を振り返っても、学生に向かって「ダメだよ、こんな論文、こんなものに学位は出せん」と冷たく言い放つこともあるし、「早く結婚した方がいいぜ」と忠告することもある。
これをして「教師の権威を嵩にきた人格的攻撃」であるとか「個人の性生活について言及する性的いやがらせ」と告発されては私としても立つ瀬がない。
当然「そんなつもりで言ったんじゃないよ」という弁明をしなければならない。
まさに問題はそこにある。
外形的な発言や行動だけを取り上げると、私の日々の言動の中には「ハラスメント」とみなされる可能性のあるものが少なくない。
私はしばしば「バカ」という評言を同業者についてさえ発することがあるが、これとても私が「斯界において豊かに享受している学術的プレスティージ」をかさに着てそういう発言をしているという解釈をされると立派なアカハラである。
問題は私が「斯界において学術的権威を豊かに享受している」ということが事実であるかどうかにはない(事実でないが)。
事実はあくまで副次的であり、先方が「ウチダには権威がある」と思っていて、現に心理的な圧力を感じていれば、私の粗忽な発言は「ハラスメント」として機能するということなのである。
今のところ、さいわいにも、私が各種ハラスメントの告発を免れているのは、私が「そう言うことによって何を言おうとしているか」がとりあえずは相手に伝わっているからである。
私が「ダメだよ、こんな論文」と言っているのが専一的に学力についてのみのコメントであって、彼女の生き方や人格についてのコメントではないことが相手に伝わっていれば問題は起こらない。
同じく、「早く結婚した方がいいぜ」という言葉も、当人の性生活への私的な興味や干渉ではなく、(「栄養取った方がいいぜ」とか「ちゃんと睡眠取った方がいいぜ」と同じような)人類学的「暗黙知」が、たまたま私の口を通じて表明されているにすぎないことを聴き手が察知していれば問題は起こらない(たぶん)。
つまり、コミュニケーションにおいて、メッセージの「解釈の仕方」は、語詞レベルではなく、非言語的なレベルにおいて受信される側に「察知してもらう」ほかないということである。
逆から言えば、表層的な語詞レベルのメッセージでは、言葉は無限の誤解の可能性に開かれている。
グレゴリー・ベイトソンは『精神の生態学』の中で、コミュニケーション失調の端的な徴候として「何を言うつもりでその言葉を言っているのかが判定できない」ことを挙げている。
例えば、「今日は何をするつもり?」という問いかけを「昨日みたいなバカな真似は止めてくれよ」という「問責」と取るか、「ねえ、いいことしない?」という性的な「誘い」と取るか、それとも語義通りに「質問」しているのかが判定できないのがコミュニケーション失調の症候である。
私たちは、ふだんは前後の文脈や表情やみぶりや声のトーンやあるいは「オーラ」によって、多数の解釈可能性のうちから、もっとも適切な解釈を瞬時のうちに採用している。
「暖かい波動」や「優しい波動」が身体的なレベルではっきりと受信されていれば、言語的メッセージが解釈次第では聴き手を傷つけるコンテンツを含んでいても、受信者はそのような解釈を採用しない。
だが、どうやらこの非言語的メッセージの送受信能力が近年とみに低下しているように私には思われるのである。セクハラ、アカハラ事件の多発はおそらくその兆候である。
「誤解される可能性のあることを口にして、現に誤解された」以上「そんなつもりで言ったんじゃない」という言い訳は通らない。
これが今日のセクハラ、アカハラ問題の判定基準である。
それは言い換えれば、メッセージの受信者には「複数の解釈可能性のうちから、自分にとって最も不快な解釈を選択する権利」が賦与されているということである。
コミュニケーション感度の高い人間とコミュニケーション感度の低い人間のどちらがこの権利を活用することになるのか、想像することはむずかしいことではない。
結果的に、私たちの社会はこれから自分宛のメッセージが含む複数の解釈可能性の中から、自分にとって最も不快な解釈を選択することを政治的に正しく、知的なふるまいとみなす人間たちを量産してゆくことになるだろう。
それによって社会が住みやすくなるとか、人々のコミュニケーション能力が向上するだろうという予想に私は与しない。
こういうことを書くと、「では、あなたはセクハラ、アカハラを放置しろと、こう言いたいわけですね」と口を尖らせて抗議する人が出てくるだろう。
私が言いたいのはそういうことではなくて、「あなたみたいな人が量産されるだろう」という予測なのである。
もちろんこんな言い訳は通らない。
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