「ここにいるはずのないやつ」と教師の要らないゼミについて

2005-06-28 mardi

朝一で三宅先生のところに行くと光安さんがいる。
久しぶりですねとあれこれ話す。
光安さんはドッジボールをやって人差し指を剥離骨折してしまったそうで指に「添え木」をしていた。
まさか指の治療に来ているのでは・・・とお訊ねすると、ちがいます首がくりくりして・・・とお互いに加齢の苦しみについていたわり合う。
大学に着いてBMWのドアをばたんと閉めると、「せんせー」という声が聞こえる。
はてなと振り返ると、日傘をさしかけた妙齢の女性が顔全体を笑いにして、あとの体幹部を消すという「チェシャ猫」状態で手を振っている。
誰かしら・・・と目を細めて見るが、それはどう見ても「ここにいるはずのないやつ」である。
これは亡霊か、それとも単にビザが切れたのか。
私がこの地に存在することを他者に洩してはなりませぬよ、と高らかに笑うと「ここにいるはずのないやつ」は西宮北口方面に去っていった。
学長にまで「ウチダ先生にはいわないでね」と口止めをしていたそうであるが、そこまでして私を驚かせようと企んだわりにはこらえ性のないやつである。

C央公論の若手編集者である小野くんが来る。
新しい本の企画であるが、もちろん既発17冊の企画をすべてチャラにして逃走中の私に書き下ろし新企画などというものが業界内部的にも許されるはずもなく、もとよりそのような時間は逆さに振っても絞り機にかけても、捻出することは到底不可能なのである。
ということは「ありものコンピ」という『ため倫』以来の「おはこ」である。
すでに現在「ありものコンピ」企画は文春と角川で進行中である。
文春はブログ日記からのコンピ、角川はあちこちに書き散らした原稿をとりまとめたもの。
C央公論の企画はブログ日記からのコンピものなので、文春の山ちゃんの企画ともろにバッティングする。
こういうのはご縁のものであるから、先に始めた山ちゃんにプライオリティがある。
小野くんは山ちゃんの「食べ残し」から一冊拾わなければならない。
とはいえ6年分のHP日記であるから、一二冊分拾っても、似た話はそこらにごろごろしているのである(書いているのは同じ人間だから、同じようなことを何度も何度も書いている)。
どちらも「大文字ネタ」(政治、社会、教育などにかかわる問題)を扱うらしい。
繰り返し申し上げているように、コンピレーションの出来は音楽の場合と同じで、ひとえに「選曲の妙」にかかっている。
それぞれ若い編集者がどのような素材をどんなふうに料理してくれるのか、楽しみである。

ゼミは三回生が「難民」、大学院が「日中比較近代化論」。
どちらもぐっと手応えのあるテーマである。
大学院には今日から中国からおいでの研究員であるT先生がお見えになり、いきなり内容がディープになる。
T先生からは中国の阿片戦争以後の近代史が「正視したくない過去」として現代中国人からは意識されていること、毛沢東がその反近代主義的傾向によって中華思想を鼓舞して中国人民の琴線に触れたことなど、現場の人からしか聞くことの出来ない貴重なお話を伺う。
もともとこのゼミは「全員非専門家」で行われている。
十数名のゼミ生のうちに中国問題に「ちょっとくわしい」というのは、日本語教師をしていて中国からの留学生に教えたことがある/中国で教えたことがあるお二人だけ。
あとは全員シロートである。
しかし、この「全員シロート」体制というのは教育的にはきわめて効果的なものであることが三ヶ月やってきてよくわかった。
教師がその主題についての専門的知識を独占的に所有しているということになると、聴講生たちは教師が誘導しようとする結論に誰も的確には反論することができない。
「キミたちは、『こんなこと』も知らんのだから、黙って私の言うことをききたまえ」ということになってしまう。
しかるに、教師の知識がゼミ生と「どっこい」ということになると話がまるで変わってくる。
発表者によってその日にあらたに与えられた情報を、これまでのゼミ発表で仕込んだ情報と組み合わせて、「ということは…こういうことじゃないの?」という仮説を立てる権利は全員にほぼ平等に分かち与えられている。
つまり、ここから先は「知識量」の勝負ではなくて、断片的知見をどのような整合的な文脈のうちに落とし込むかを競う「文脈構成力」の勝負になる。
誰も正解を知らないクイズ番組みたいなものである。
いちばんみんなが納得のゆきそうな仮説を立てた人間がその回の「さしあたりの正解者」のポジションを得ることができる。
ただし、あくまでテンポラリーな正解者であり、翌週にその仮説を覆すような新たな知見が提示されれば、いやでも「正解者」の席を降りなければならない。
これは中国についての「ただしい知識」を身につける方法としてはかなり迂遠なやり方であるけれども、全員に主体的にゼミに参与させる教育方法としては「これ以上のものはない」というほどによくできた方法である。
現に、三ヶ月前はごく平均的日本人のレベルにあったゼミ生たちの中国リテラシーは見違えるように向上し、「華夷思想が清末の洋務運動に与えた影響はそういうんじゃないと思う」とか「愛国主義教育によって江沢民の党内基盤は強化されたんだろうか?」とか「改革・開放路線と毛沢東思想のフリクションはどうやって思想的整合性を獲得するかな」というようなぐっとコアな質疑応答が飛び交うようになった。
この調子で一年が経ったら、ゼミ生全員が中国問題専門家として学部の講義の三回分くらいは担当できるようになるのではないだろうか。
本日の日中近代化比較は、「日本の幕藩体制は明治維新以後の近代化のための知的インフラを整備したものであり、この270の『国』があったという日本の特殊性がアジアにおいて例外的なスピードでの近代化を可能にしたのである」という不肖ウチダの仮説が多くの支持を集めて、「本日の正解」となったのである。
でも、べつに私が毎回「正解者」である必要は少しもない。
むしろ、私の提示する仮説が反論によって破綻される場面を見ることの方が教育上はずっと有意義なことだろう。
ふつう私たちは「専門的知識を備えた人間が指導しなければ教育は成立しない」と考えがちだが、そういうものではない。
仮説の提示と挙証、その反証という手順についてルールをわきまえたレフェリーさえいれば、どのような分野の主題についても学生たちは実に多くのことを学ぶことができる。
逆に、知識はあるが文脈構成力のない教員に指導されている限り、学生はたぶん何も身に付けることができない。
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