トップマネジメントカフェの帰りに吉田城くんの訃報に接す

2005-06-26 dimanche

箱根奥湯元の「はつ花」でトップマネジメントカフェのセミナー。
平川くんの主宰する経営者セミナーの講師にお招き頂いたのである。
5時半起きして7時半新大阪発の新幹線で新横浜へ。小田原に一駅分戻って、箱根登山鉄道で箱根湯元まで、そこからさらに旅館の送迎バス。
猛暑にへろへろになって11時半ころに現地に着く。
主宰のビジネスカフェ・ジャパンの渡会さんにご挨拶しているところに平川くんが登場、先週会ったばかりだし、湯元は恒例の「極楽麻雀」の拠点でもあるので、仕事とはいえ気楽なものである。

箱根はつ花にて平川克美君と

はつ花は緑の峡谷の谷に立つ、たいへんスリリングな旅館である。
窓からは「木々の緑と青空」だけしか見えないので、なんだか遠近感が狂う。
続々とセミナー参加の経営者のみなさんが登場。
キリン・ビバレッジ元社長の阿部洋己さん、やサン・マイクロシステムズ・ファイナンスの長谷川将社長はじめ何人かには『反戦略的ビジネスのすすめ』と『東京ファイティングキッズ』の出版記念パーティでご挨拶したことがある。
昼食後すぐにセミナーがはじまる。
「学びからの逃走、労働からの逃走」と題して、私がキーノート・スピーチを2時間ほどして、それから平川君の司会でフロアと質疑応答。
経営者のみなさんも学校教育の危機とNEET問題にはつよい関心をもっておられることがわかった。
とくにNEETの出現が経済合理性の追求に社会の価値観が一元化したことの必然の結果であり、彼らこそもっとも「経済合理性に忠実な消費主体である」という私の主張(ネタもとは苅谷剛彦さんと諏訪哲二さん)とNEETを生み出さないような教育はどうあるべきかに質疑が集中した。
産業構造の転換、身体性の回復、師弟関係エートスの復権、親密圏の構築、リスク社会からセーフティネット社会へのシフト、自然の中での教育、反戦略的育児・・・などみなさんが提示した論点はどれも先端企業の経営者の口から聞こうとは思わなかったほどラディカルでかつ洞察に富んだものであり、刺激的な5時間のセッションであった。
セッション終了後、打ちそろって露天風呂に。
風呂の中でも話は続き、そのまま宴会場へ、さらには二次会会場へとエンドレスで教育と家庭とさらには修行や宗教教育をめぐって談論風発、気がつけば12時を回っていた。
参加者はほぼ全員が社長さんであり、多くは生き馬の目を抜くIT業界の方なのだが、そのたたずまいは長老格の阿部さんはじめみなさん実に思索的である。
「それでなんぼもうかりまんのんか?」的な表層的なビジネス・リアリズムはこのセミナーには片鱗もない。
さすが「反=戦略の人」平川君の主宰する場である。
というわけで「ビジネスマインデッドな大学教員」と「教養主義的なビジネスマン」の出会いは思いがけなく幸福なしかたで成就したようである。
このセミナーでのスピーチがとりあえず講談社の「教育論」のコアになるが、労働、交換、時間、他者、エロス、といった論点は時間がたりなくて、十分に掘り下げることができなかった。
データにしたあとにほぼ全面的に改稿しなければならない。
そのあと、平川くんと学びと労働について集中的な議論をかわして、それで一冊に仕上げるつもりである。
でも、これは私にとってたいへん重要な著作になるはずである。

翌朝、セミナー参加者のみなさんと別れて、平川くんの車で箱根の「ポーラ美術館」へ。
美しい森の中の美術館である。
ここで印象派の展覧会をやっている。
モネ、マネ、ルノワール、シスレー、スーラ、ゴッホらの佳作を拝見する。
オランジュリーがずっと工事中だったので、長いことモネの「睡蓮部屋」を訪れていなかったが、「単品」の睡蓮を二作品拝見して、「渇望」がすこし癒える。
心が洗われるようである。
そのまま平川君と文学と哲学と経営について終わりなくハイブラウな対話が続く。
平川君と話していると、どんどんアイディアが湧いてくる。
まことに得難い友人である。
新横浜まで送ってもらって、別れを惜しみつつ新幹線で帰途につく。
いささか疲れたけれど、収穫の多いセミナーであった。
新横浜駅で携帯の電源を入れると、吉田城くんの訃報が入っていた。
一昨日亡くなったようである。
死因は腎不全。
青年期からの長い闘病生活の暗さをまったく感じさせずないで、いつも笑みを絶やさない「人生の達人」であったけれど、最後は病魔に屈した。
去年の学会に吉田くんの司会でワークショップをやって、そのあと吉田夫妻や若い院生たちとご飯を食べて札幌駅前で手を振ってわかれたのが最後になった。
冬に京大で集中講義をする機会にいっしょにご飯でも食べようと思っていたのに、それももうかなわない。
またひとり懐かしい友人を鬼籍に送らなければならない。
去年の夏の集中講義のとき、学会のワークショップのためにぼくと連絡を取ろうとしていた吉田くんと京大文学部のエレベータの中で会った。
扉が開いたときの「え、ウチダくん、どうしてここにいるの? 君のことずっと探していたんだよ」というびっくりした顔を思い出す(彼が何度家に電話しても私をつかまえることができなかったのは、私が彼の研究室のある棟で講義をしていたからだったのである)。
そのうち「あの世」のエレベータの扉が開いたときに、もう一度同じことを言ってくれるかもしれない。
吉田城くんの魂の天上での平安を祈ります。
残された奥様とご遺児の上に神の豊かな慰めと癒しとがありますように。

昨年の学会の時北大のクラーク博士の胸像の前で、吉田城君と写した最後の写真
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