対偶と教員評価(のあいだには何の関係もありません)

2005-06-26 dimanche

朝一で『文學界』の原稿を書き上げる。
今月号で最終回のはずであったが、思考が暴走し始めて、「もうどうにもとまらない」状態になり、「最終回のその続き」を来月号に書く羽目になる。
話がどんどんわけのわからない方向に展開して、書いている本人もどのあたりに着地することになるのか予測できない。
困ったものである。
ところが、この「私家版・ユダヤ文化論」に意外な読者がいる。
かの養老孟司先生である。
養老先生が毎月ご笑覧くださっているという話を先日新潮社の足立さんから伺った。
別に先生がユダヤ文化に特段の関心があるというわけではなく、私が論証に際してしばしば「対偶証明法」を用いるのを、日本人で対偶を推論に活用する人は少ないということで珍重されているのだそうである。
へえ。そうなんですか・・・と足立さんの前ではうなずいてはみたが「対偶」が何のことだかわからない(文字を思いついただけでも多とすべきか)。
裏とか逆とか対偶とか、たしか数学でやったような気がするが、すべて遠い霧の彼方である。
さっそく帰宅後哲学事典やネットで調べてみる(調べる手間を惜しまないというのが私の数少ない長所のひとつである)。
するとおおむね次のようなことであった。
数学が苦手な人はパスしてくださって結構です(ウチダも苦手だけど、ゆきがかりじょう)。
全称命題「すべてのSはPである」の対偶は全称否定命題「すべての非PはSではない」である。
記号論理学でいうと、A⊃B(AならばB、つまり集合Aは集合Bに含まれる)の対偶は〜B⊃〜Aと書き表される。これは「Bでないならば、Aでない」つまり、集合「非B」は集合「非A」を含むを意味する。
例えば、「すべての人間は生物である」という命題がある。
論理式的にいうと、「人間ならば生物」。
これは「人間」の集合は「生物」の集合に含まれるということである。
「人間であれば、絶対生物である」。
ここまでは私にもわかる。みなさんもわかりますね、もちろん。
この命題が真であるならば、その対偶はトートロジックに真である。
「すべての人間は生物である」の対偶は「生物でないなら人間でない」つまり「生物にあらざるもののうちに人間は含まれない」である。
というわけで、「すべてのSはPである」と「すべての非PはSではない」の真偽は一致するのである。
そこで、「すべてのSはPである」の真偽を判定するときに、「すべての非PはSではない」という命題を吟味するという証明法が使えるのである。
「すべてのSはPである」の真偽の判定はやたらに面倒だが、対偶の判定は意外に簡単ということはよくある(らしい)。
これを活用するのが対偶証明法である。
「高校数学の基本問題」というウェブサイト(なんでもあるんだ、ウェブ上には)にはこんな例があがっていた。

【問い】
x+y+z≧0のとき,x.y,zの少なくとも1つは0以上であることを証明しなさい
【答え】
x,y,z<0 ならば x+y+z<0

対偶が真であるから,もとの命題も真である。
この程度の説明なら私にもわかる。
みなさんにもわかるであろう。
でも、私の書き物のどこに対偶証明法が活用されているのかは、私には見当がつかない。
あるいは私は「それと知らずに」数学的に思考しているのかもしれない(「数学屋のメガネ」さんによると、私の推論形式はけっこう数学的検証に耐えるものらしいから。意外にも)
理科系出身の平川君によると、「そういえばそうだね」ということなので、そうなのかもしれない。

原稿を紀尾井町方面に送信してから、大急ぎで京都キャンパスプラザへ。
今日は私大連の「教員評価委員会第一回シンポジウム」の発題者として「神戸女学院大学における教員評価システムへの取り組み」についてご報告申し上げねばならないのである。
最初に教員評価のセミナーを聴きに行ったのは自己評価委員長になったばかりの四年前のことである。
その頃はまだセミナー参加者も二三十人ほどで、東海大医学部や岐阜薬科大の希少なる先行事例を伺うだけだった。
それがいつのまにか私大連加盟123大学の半数が参加する一大イベントとなった。
本学は2001年から導入にむけて動いたので、教員評価の取り組みにおいては私学では「先進校」であったのだが、評価表つくりに四年ももたもたしていたので、ほかの大学にどんどん追い抜かれてしまった。
今回は「教員評価に取り組みはしたものの、導入を前にいまだ学内の合意形成にもたついている大学」を代表してご報告をする。
教員評価導入について、どのような種類の抵抗が教員サイドからなされるかについて、今後導入される諸大学のために「前車の轍」としてご紹介する。
代表的な「抵抗」の理論としては次のようなものがある。

(1)「大学教員の研究教育活動は厳密に定量的には評価できない」

これがいちばんよく聞かれる反対論である。
たしかにおっしゃるとおりである。
しかし、それを言ったら教員諸君が日々学生に対して行っている「成績評価」というのもそうである。
出席数や試験やレポートの点数は必ずしもその学生の学力を厳密には表示していないことはご案内のとおりである。
だが、学生本人の努力によって操作しうる数値であり、客観的に共有しうるデータであるという利点を考慮すれば、これを評価に用いるのは適切なことである。
それと同じく、すべての研究教育活動はたしかに定量的に評価できるものではない。
だが、かなりの部分までは数値化できるし、なによりもその数値を被評価者自身の意思によってコントロールすることができる。
例えば、論文が掲載された学術誌のインパクト・ファクターを指数として掲載論文数に乗じた数値は研究の質を、労働時間数(マルクスによればこれこそ教員が創出した「労働価値」である)は教育活動の「価値」を、それぞれ近似的に表現している。
研究領域の点数を上げたければ、国際的な学術誌に投稿すればよいし、教育領域の点数を上げたければ、ゼミにたくさん学生が集ま、多くの学生院生たちから「ぜひ論文指導してください」と懇願されるような教育活動をこころがければよい。別にむずかしい話ではない。
「厳密に数値化できない」というデメリットは、「本人の努力で数値を変えることができる」というメリットによってトレードオフされるだろう。

(2)「近似的はダメで、完全な評価でなければならない(完全でないならやらないほうがいい)」

これは評価コストを青天井に吊り上げることで「評価意欲を殺ぐ」という反対の仕方である。
これは政治の季節にはしばしば口にされたものである。
「そんな微温的な闘争方針は体制を補完するものでしかないんだよ」というような切れ味のよい啖呵を切って「現状維持」を帰結するというなかなか高度な裏技である。
この手のことを言う人の中にほんとうに現状を憂え、改革することを望んでいる人間はあまりいないということを私は経験的に知っているので、相手にしないのである。
この場合には「評価に費やされるコストは評価によって得られるベネフィットを超えてはならない」という評価の原則を確認することで反論は退けられる。
地球環境を守る最良の方法は全人類を抹殺することであるが、それだと「何のために地球環境を守っているのか」わからなくなるのといっしょである。

(3)「業績評価は成果主義であり、成果主義の導入はワーク・モチベーションを損なう」

これは経営学の知見を引いた理屈である。
たしかに成果主義に反対する高橋伸夫さんは業績に対して給与ではなく「より質の高い仕事」で報いる日本型年功制度の利点を強調している。
しかし、これはあくまで「会社の話」である。
「業績に対してより高い質の仕事で報いる制度」が機能するためには、「部下の業績を適切に考課して、適切な部署に配置し、適切な業務を命じる上司」の存在が必要である。
高橋さんに倣って、教員評価を「成果主義的」であるとして退けるなら、同時に「上司による勤務考課」の導入を受け容れなければ話の筋道が通るまい。
それでよろしいのだろうか。
教員たちを「上司と部下」という固定的な階層組織に再編したいというふうに理解してもよろしいのか。
まさかね。
だが、成果主義には反対だが、上司による勤務考課にも反対であるということになると、残る選択肢は「いっさい評価をしない」ということしかない。
しかし、「人間は評価されない方がワーク・モチベーションが上がる」という知見を語っている経営学のあることを私は寡聞にして知らない。
そのような教育論なら存在するかも知れない。
だが、教育論を教員に適用した場合、「評価されない」ことによって「のびのびと育ってゆく」教員たちを「暖かく見守り、指導する先生」はいったいどこにいるのだろう?

ほかにもいろいろと反対論はあるが、どれも私にはあまり説得力があるようには思われなかった。
しかし、それでもなお来月の教授会で教員評価システム導入が否決される可能性は排除できない。
その場合、本学はおそらく日本で最初の「教員評価システム導入を教授会で否決した大学」になる。
それもまた一つの行き方だろう。
私は決して「そういうの」がキライではない。
「日本で最初に・・・をした人間」というような名乗りには(内容を問わず)高い評価を与えてしまうことについては人後に落ちないと申し上げてよろしいであろう。
その私が「日本で最初に教員評価システム導入を教授会で否決した大学」になることを拒む理由は一つである。
その決定の責任を引き受けてくれる人間がいないからである。
一大学が文部行政に反対する重要な機関決定を行ったのだが、その決定の趣旨を大学を代表して公的立場から語ることのできる人間がいない(学長もFDセンター・ディレクターも提案者の私も、誰も「導入を否決した機関決定の正しさ」について論じることができない)。
そのような決定は行うべきではない。
私はそう思う。
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