死者と傷跡

2005-06-23 jeudi

野崎くんの家の仮通夜に行く。
仮通夜といっても、親族の方々は前夜に訪れて、昨日は次郎くんひとりで亡骸のそばで夜を過ごしていた。
ひとりじゃ寂しいから来てくれよという電話がきたので、シャンペンとビールのパックと大丸のデパ地下で購入した「おつまみ」類を抱えてでかける。
焼香してから、「三人」でお酒をのみかわし、昔話に耽る。
父が死んでからあと、親しい人が死んだ時には、死者が長い間「そこ」にいるという感じがずっとしている。
その人がその場にいたらきっと言いそうなこと、しそうなこと、怒りそうなこと、笑いそうなこと…そういうことをいつも「勘定に入れながら」残された人間はふるまってしまう。
彼女がその場に「いる」のとあまり変わらない。
私はそういうのはとても自然なことのような気がする。
「死者を勘定に入れて」ふるまう限り、死者は生きている私たちに「触れて」いる。
私たちの生き方にかかわり、私たちの生き方を規定し、私たちのひとつひとつの決断の判断基準になっている。
「存在しないもの」は「存在するとは別の仕方で」私たちに深くかかわる。
ふたりで歓談しながら、ときどき、ヒロ子さんはどう言うだろうと思うと次郎くんは亡骸の方を見やって、「ね、そうだよね」とか「いいでしょう、それでも」とか、笑いながら話しかける。
その口ぶりがとても自然なので、私もヒロ子さんがそこにいるような気になる。
「弔う」というのは、きっとこういうことなんだろうと思う。

水曜日はひさしぶりのオフなので、朝から原稿書き。
週末のトップマネジメントカフェのレジュメを書いて送稿してから、『私家版・ユダヤ文化論』の続きを書く。
今月で最終回のつもりだったけれど、なかなか話が終わらないので、今月は最終回「その一」ということにして、来月に「その二」を続けることにする。
だんだんわけのわからない話になる。
どう読んでも「政治的に正しい」ユダヤ人論ではない。
ユダヤ人問題については「つじつまのあった話」や「政治的に正しい話」だけを選択的に語ろうとすると、問題の核心にいつまでたってもたどりつかない。
どこかで自前の知的枠組みを放棄しないと先に進めない。
それはたぶん「知的」という概念と「ユダヤ人性」という概念がねじれたかたちで絡み合っているからだ。
私自身の「ユダヤ論」の骨格をかたちづくったのはレヴィナス哲学の読書経験である。
私は20年以上レヴィナス老師を「メンター」に擬して思考訓練をしてきた。
だから、私が「知的なアプローチ」だと信じているもののかなりの部分は老師から学んだ「ユダヤ的な作法」である。
「ユダヤ人のものの考え方」というような概念の切り取り方そのものをユダヤ人哲学者から学んだ人間の書くユダヤ人論が中立的であったり学術的であったりするということはありえない。
私が分析に使っている当の道具にしみこんでいる民族的「奇習」を、その道具を使って論じるというようなアクロバシーが可能なのだろうか。
よくわからない。
たぶんこのアプローチは破綻するのだろうけれど、その破綻の実状を「開示する」というかたちでしか私の「私家版ユダヤ文化論」は書き上げられない。
ややこしい理路だけれど、そういう「ややこしさ」に耐えなければどうにもならない論件なのである。

夕方から堂島のフェスティバル・ホールへ。
『スター・ウォーズ3』の試写会に越後屋さんからお招き頂いたのである。
来月の「エピス」のネタだし、やっぱり大きな映画館で祝祭的な雰囲気で見ておきたい。
武藏さんが「ダース・ベイダー」の格好をして舞台に登場。
「素」の武藏さんの暖かさが劇場をふんわり包む。
2000人からの観客を一瞬で「やさしい気分」にしてしまうというのは武藏さんのスケールの手柄だろう。
映画はたいへん面白かった。
町山さんがブログで書いていたので、けっこう「暗い」映画なのかなと心配していたけれど、考えてみたら、『スター・ウォーズ』6作通して見ると、めちゃくちゃ「暗鬱な」映画だったということに思い至る。
なにしろ、師弟の離反、親子の殺し合い、子棄て、母棄て、デマゴーグの跳梁、独裁者の待望、偏狭なナショナリズムの勝利、そして繰り返し映像化される四肢の切断…というめちゃめちゃ「濃い」ストーリーラインなのである。
物語的には「最終回」である Episode 6『ジェダイの逆襲』のラストの「とってつけたような予定調和」にくらべると、興行的な「最終回」である Episode 3『シスの復讐』のラストの「わりきれなさ」の方が『スター・ウォーズ・サーガ』の「締め」としてはたしかに「つきづきしい」。
結局この長編映画の中で最後まで、信じていた人間に裏切られなかった「無傷」な人はひとりもいない。
ハン・ソロだけが比較的無傷に見えるけれど、あれはハリソン・フォードのお気楽キャラの功績であって、ジョニー・デップとかブラッド・ピットが演じたらけっこう「神経症的」人格になったかもしれない(だって、長期冷凍されちゃうし、惚れたレイア姫は兄妹相姦一歩手前だし)。
『スター・ウォーズ』って悲劇だったんですね。
ところで明日あたり300万ヒットになりそうなので、300万および前後賞の方には本願寺出版社から「賞品」が提供されるそうです。
「当たり」の人はお知らせください(「お知らせ」の仕方については200万のときにIT秘書室からアナウンスがありましたね。忘れちゃいましたけど。やり方がわからない人はとりあえず画面をコピーしておいて下さい。詳細はIT秘書から・・・イワモトくん、あと書き足しといてね)
--------