未来予測と決意表明

2005-06-19 dimanche

持つべきものは友である。
平川ブログに先夜の顛末が記してあったが、そのときにふたりで話した「どういう場合に会議はストレスフルなものになるのか?」という論件について、たいへんクリアカットなお言葉が記してあったので、再録しておきたい。

「それにしても、のたうちまわるほどのストレスを抱える仕事があるってのは、大変なことである。
いや、仕事が大変なのではない。
どうでもいいようなことを、クリアしないと、どうしてもやらなければならないことに駒を進められないという事態が、やりきれないのである。
ウチダくんの呻吟の委細は知らないが、主要な論件をめぐって議論が角逐することは
タフなことには違いは無いがストレスはあまりたまらない。
どうでもいいことで議論が空転することの空しさがボディに効くのである。
どうでもいいようなことにこだわり続ける人というものがいる。
面子。原則。被害者意識。ポリティカルコレクトネス。厳密な定義。自分の感情への誠実。
これらのことが、重要な場合もある。
しかし、遂行的な場面においては、ほとんどどうでもいいことである。
ビジネスにおいてふたつの戦略のどちらを選ぶかといった議論を何度もしてきた。
俺はほとんどの場合、どっちだっていいじゃねぇかなのである。
だって、未だ実現されざる未来について厳密な議論をしたところで、それが未来を保証するわけではないことを経験的に知っているからである。
とくに、判断が二分している場合には、どちらにも、すこしはいいところがあり、どちらにも、瑕疵があるということである。
いや、未だ実現せざることについての話である。
やってみなけりゃわからない。
どっちが正しいかというような正邪の文脈の話ではないのである。
むしろ、将来の成果に決定的な影響をあたえるファクターは、「誰が」それを担うかということだろう。
そいつが、信用のおけるやつであり、情熱をもってやりたいというのなら、もう、半分以上は道筋が見えていると言うことである。
「いんじゃないの。」
「ま、じゃあやってみっか。」
「で、俺は何をすればいいの」
こんな感じで、何十年もやってきて、決定的な過失は無かったように思う。
だいたいでいいというのは、いいかげんということではなく、「あたり」はついているということなのである。
遊撃隊の任務を分担せよ。
遂行的な場面で重要なのはこれ以外には見当たらない。」

まったく間然するところのない「会議論」である。
私は平川くんのこの考え方に深く共感するものである。
とくに問題の核心は議論の認知レベルでの整合性ではなく、その遂行性のうちにある、という指摘は重要である。
これまでも繰り返し書いてきたとおり、方針にかかわる議論が決着しないのは、そこに「未知」のファクターが入っているからである。
当たり前だけど、先のことはわからない。
だから、論者はそれぞれの「未来予測」と「遂行的決意」込みでその主張を語らざるをえない。
教員評価システムの場合、

(1)文部科学省と認証評価機関から評価システムの導入が「強く」指導され、違反者に「ペナルティ」が課される
(2)その場合に、「自己評価」ではなく、所属長による「勤務考課」にウェイトを置く考課表が「強く」リコメンドされる
(3)人件費削減のために理事会が「上司による」勤務考課制度の導入を要求する

という3点を(多少の時間差はあれ)「かなり確度の高い未来」として私は予測している。
私はこれまでの数年間かなり集中的に文部行政の「シグナル」(観測気球)と「施策」(法制化)のあいだのラグをリサーチしてきた。
その経験からすると、(1)(2)については、すでにはっきり「シグナル」が示されているから、実施に至るのは「時間の問題」であるというのが私の判断である。
(3)は次期理事長が誰になるかで変動するので、見通しは不明だが、現在の理事会の「人件費削減への旺盛な意欲」をふまえるならば、かなりの確度で「起こりうる」未来である。
このような「考課」のともなう「恣意性・権力性」と「評価負荷」を考慮すると、「(学科の特性を考慮して)自前でつくった」「配点を自己選択でき」「(公開情報に基づく客観評価だけなので)評価負荷がミニマム」のシステムを選択することは、「悪くない」判断であると私は思っている。
現に、原案に反対する人たちの中にも、この(1)(2)(3)について異論を唱えた人はいなかった。ということは、私の未来予測の蓋然性については、ご同意頂いているということである(たぶん)。
では、残る「未知」の要素とは何か。
私が記憶している限り、教授会で言及されたものはひとつしかない。
それは「評価システム導入されたことによる勤労意欲の減退」という未来予測である。
反対を唱えたほぼ全員がそれを口にした。
だが、「数値化されたらやる気がなくなる」というのは「未来予測」ではない。
それは「決意表明」である。
だって、主語は「私は」なんだから。
教員評価システムの導入に私は反対である→なぜなら、それは教員の「やる気」を損なうからである→私は教員である→システムが導入されたら、私は「やる気をなくす」であろう
要するに「その施策が不適切である」ということの論拠を「私自身が未来においてその施策の失敗のために努力を惜しまないであろう」という「宣言」に置いているわけである。
これは反論することのむずかしい立場である。
教員評価システムは、その名分においては、「教員のアクティヴィティを高める」ための施策である。
そのような施策によっては「アクティヴィティは高まらない」ということを主張する教員たちは、「ご自身のアクティヴィティを下げる」ことによって、その主張の正しさを証明することができる。
というか、「それしか」できない。
というのは、もしシステム導入後に彼自身のアクティヴィティが上がってしまうと(仮にそれがまったく別の理由からもたらされた効果であったとしても)、それはシステム導入が政策的に「正しかった」ことの証拠として(ウチダによって)認知されてしまうからである。
自分が反対した施策の正しさを(「その施策の正しさを理解できないほどに判断力を欠いていたという事実」を)身銭を切って証明してみせるというのは、たいへんに不愉快な経験であろう。
熟知されているように、大学教員の相当数は「所属する共同体にとって有意義な活動をすること」よりも、「自分の推論の正しさを証明すること」の方を優先させるタイプの人々である。
このタイプの教員たちが、この先、研究教育学務のすべてにおいて「手を抜けば抜くほど」自説の正しさが証明できるという誘惑的環境におかれた場合、どのようにふるまうことになるか、想像するのはそれほどむずかしいことではない。
そういう意味で、私はこの「決意表明にもとづく未来予測」はなかなか論駁するのがむずかしいと考えているのである。
だが、その反対に、「もし、教員評価システムが導入されて、かりに他の教員たちがそのアクティヴィティを低下させても、私は私自身のアクティヴィティを下げるつもりはない」という「決意表明」をする人々もいる。
まちがいなくかなりの数の本学教員はそのような決意をされているように思われる。
そのような教員たちが多数派を占めるならば、「暗鬱な未来予測」は「断固たる主体的決意」によって覆されることになる。
いずれの場合も、「アクティヴィティが下がる」という未来予測の蓋然性はそれを語る人間の主体的決意にほぼ100%依存している。
私たちは文部科学省や中教審や大学基準協会の採択する教育行政方針を個人の主体的決意によって変えることができない。
しかし、自身のアクティヴィティの質は主体的決意によって変えることができる。
そうであるから、「変えることがむずかしい」要素を「認知的常数」とし、「変えうるもの」を「遂行的変数」として未来予測を行うことを私はお勧めしているのである。
わかりやすい話だと思うのだが。
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