モードの構造

2005-06-17 vendredi

三年生の専攻ゼミのお題は「ファッション」。
女子大生は好きなんですよ、このテーマが。
いきおい、それで卒論を書く学生も多いが、揃ってできはよろしくない。
それも当然で、ファッションやモードやブランドについて彼女たちが参照する言説はそのすべてが(と申し上げてよろしいであろう)「消費の活性化とターゲットの限定」をめざす「業界」の文法に貫かれているからである。
それは宝塚歌劇については「その擁護と顕彰」に奉仕する劇評以外存在しないのと同型的である。
なぜ、若い女性は時給750円のバイト200時間で稼いだ金をヴィトンのポーチに投じるというような無謀な消費行動をとるのか。
そのような消費行動を規定しているファッション言説の生成システムに肉迫する研究に私はまだ出会ったことがない。
研究は「ラディカル」でなければならない。
ラディカルというのは根源的という意味だよ(とマルクス老師はおっしゃった)。
ものごとはその根源に立ち返って考えなければならない。
以前書いたように、ルイ・ヴィトンの年間生産量の50%は日本人が購入している。
これはどう考えても「異常」である。
ヴィトンのバッグはボードリヤールが言うように「象徴価値」をもつ商品であって、その趣意は「所有者の社会的階層を指示すること」である。
ところが、日本では時給750円のビンボー娘がヴィトンのバッグを持っているのであるから、ブランド商品は「所有者の所属階層を指示する記号」としてはまったく機能していない。
記号としてはたしかに機能しているのだが、それは「階級」というようなおおざっぱなもの識別指標としては機能していない。
日本社会におけるブランド商品や流行感度はもっと「微細な」差異を指示する記号なのである。
日本人の記号操作のきわだった特徴とは、ひとことでいうと「米粒に千字書く」ような「微細な差異の感知能力」にある。
非日本人にはまず感知できないようなわずかなグラデーションの違いのうちにくっきりとした記号的分節を発見できる能力。これが日本人の記号操作を特徴づけており、日本における流行商品の消費動向全体を規定する条件なのである。
その結果、日本ではどういうことが起きているかというと

(1)ファッションにおける記号的差異があまりに微細であり、かつ頻繁に変更されるので、消費者は暗号解読のための「コードブック」を参照する必要がある
(2)ごくわずかな物質的差異が記号的に有意なので、「生産コストが安くすむ」
「ファッション雑誌」という膨大な量の言説は消費動向を規定するプロパガンダであると同時に、「着こなし」や「チョイス」の差異が「何を意味するのか」を公共的に確認するための「暗号解読表」としても機能している。だから、若い女性はむさぼるようにファッション雑誌を読むけれども、あれは競馬ファンが「血統」をそらんじたり、博徒がサイコロの「出目」をそらんじているのと同じく、「文脈」を暗記しているのである。

このような消費者サイドの滅私奉公的協力があるので、業界サイドは大幅なコスト削減を達成できる。
コストダウンというのは、素材が同一であり、デザインが同一である商品を大量に作成することで達成される。
日本の消費者は「ファッション雑誌熟読」のおかげで、わずかなデザインやコーディネイトの差異のうちに「流行感度のきわだった違い」を感知できるたいへんに差異コンシャスネスの高い人々であるので、商品を提供する側としては、「細部をほんのちょっと変える」だけで「まったく別の商品」を作り出すことができる。
つまり、メーカーさんは生産ラインの99%を同じにしたまま、1%を変えるだけで「流行遅れ」の商品を「流行の先端をゆく」商品に書き換えることができるのである。
こんなことはスカート丈の1センチの違いや襟幅の5ミリの違いを「記号として感知できる消費者」の協力なしにはありえない事態である。
しかし、日本人はそれができる。
これによってもちろんメーカーはわずかな投資で毎年新商品を展開できるというメリットを享受しているわけだが、同時に消費者も大量生産によるコストダウンのおかげで良質の商品を相対的に安い値段で入手することができる。
そして忘れてはならないのは、日本人が世界に誇る「付和雷同体質」である。
あるファッションアイテムがわずか数週間のうちに全国を席捲し、「流行感度のいい女の子」たち全員が同じ格好をするというようなことは欧米ではありえない。
この「トレンドに乗る感覚」は欧米の消費者が経験することのない種類の「宏大な共生感」を日本の消費者たちにもたらしている。
そういう点で日本の若い女性がファッションを享受している仕方は独特である。
流行というのはむずかしいもので、ある服装をしたり、ある持ち物を選ぶことが「流行感度の先端性の記号」であるということが理解されるためには、「流行感度の先端性」を解読するリテラシーが「すでに」大衆的に共有されていなければならない。
「あら、お洒落ね!」と「受けて」くれる人がいない限り、どのような先端的なスタイルも記号としては機能しない。
「それが何を意味するかがすでに知られている」ものでなければ、どのようなものを着用携行しようと、それは流行感度の記号としては認識されない。
そして、「それが何を意味するかがすでに大衆的に認知されている」ということは、逆説的なことに、それが「すでに先端的ではない」ということを意味しているのである。
流行が魅惑的なのは実はこの一点にかかっている。
それ自体の先端性を否定することなしには、先端性として認知されないという「脱構築」的な宿命ゆえに、〈流行〉はすぐれて人間的な現象なのである。
というような話をしたかったわけではなくて、ファッションを論じるのであれば、それがそのまま日本文化論になるような掘り下げを期待したいということを申し上げたかったのである。
健闘を祈る。
--------