靖国再論

2005-06-15 mercredi

靖国神社参拝の是非を論じたら、いくつかコメントやTBがあり、いろいろ議論がされている。
目を通したけれど、その中に小泉純一郎の「戦略」についてまじめに論じたものはどうもひとつもなさそうである。
だが、私が訊いたのは、それ「だけ」である。
どうして、誰も答えてくれないのだろうか。
私の設問の仕方が悪かったのかもしれないし、どなたも「そんなこと」には興味がないのかもしれない。
「興味がない」のは、おそらく靖国参拝賛成派の方も反対派の方も「小泉が何を考えているか、私にはわかっている」と思っているからである。
参拝反対派の方の中には「小泉首相が何を考えているか、わからない」と率直に言う方もある。けれどもそれに「わかりたい」という言葉は続かない。
私はそういう態度はいささか危険ではないかと思う。
彼は場数を踏んだ政治家であり、下馬評をひっくり返して自民党総裁のポストをゲットし、圧倒的な追い風ブームを作り出して選挙に連戦し、戦後最良の関係を日米間に築き上げた手練れの外交家である。
彼がまさか「強気に出ないと相手になめられる」というような路地裏政治力学のレベルで日中関係というデリケートな外交的難問に対処するほどに知性を欠いた人物だと私は思わない。
もしかしたらほんとうに「何も考えていない」のかもしれないけれど、私はこういう場合にはそういう安易な回答への誘惑を自制することにしている。
自分がその行動を理解できない人間の動機について忖度する場合には、「そこには容易に常人の想像のおよばない深い理由があるのでは・・・」と考える方が、少なくとも私にとってはスリリングである。
どちらにしても、それによって失われるのは私の時間であって、誰の迷惑にもならない。
というわけで、誰も私に代わって想像してくれる人がいないようなので、自分で小泉純一郎は何を考えているのかについて想像をめぐらせてみることにした。
以前にも書いたことをもう一度繰り返すが、日本国首相がA級戦犯が合祀されている靖国を公式参拝することについて、権利上まっさきに異議を唱えるはずの国がある。
アメリカ合衆国である。
アメリカは直前の戦争で、「日本軍国主義」と戦い、硫黄島で29000人、沖縄戦で12000人の戦死者を出した。
アメリカ大統領は、太平洋戦争で日本軍に殺された数十万の米軍兵士たちの「英霊」への配慮から、「軍国主義の指導者」が合祀されている神社への総理の参拝に強い抗議を申し入れてよいはずである。
「アメリカ人を殺した日本兵士たちを一国の首相がすすんで慰霊するということは、二度目の真珠湾攻撃のための心理的準備を行うことに等しい」というような理屈をつけて。
だが、アメリカ大統領はそういう申し入れをしない。
私たちが注目すべきなのは、中国韓国から「クレームがつく」ことではなく、むしろアメリカから「クレームがつかない」ことの方である。
靖国参拝賛成派の多くは、南京虐殺を理由に広田弘毅、松井石根を処刑した「東京裁判」の不当性についてもあわせて言及するのがつねであるが、その東京裁判を主導したのはほかならぬアメリカである。
その東京裁判の「不当」を言い立てる世論に乗って、アメリカ人将兵の死に直接責任があるとアメリカ自身が認定した戦争犯罪人を祀っている靖国参拝を繰り返す政治家に、もっとも不快を感じる国があるとしたら、常識的に考えて、アメリカである。
胡錦涛よりも先にまずジョージ・W・ブッシュが「公式参拝をやめろ」という強いメッセージを出してよいはずである。
しかし、ブッシュ大統領もアメリカ国務省もこの問題に対しては沈黙している。
「牛肉を買え」というような手前勝手なことについては日本の国民世論をいくら逆撫でしても言いつのる国が、なぜ日本国首相の靖国参拝という「外交的非常識」についてはこれを座視するのか?
そのことをどうして人々が「不思議だ」と思わないのか、それが私には不思議である。
アメリカが首相の靖国参拝を座視する理由は論理的に考えればひとつしかない。
アメリカは小泉首相の公式参拝を彼らの東アジア戦略上「有利」なカードであると評価しているからである。
外交問題を感情の次元で議論するなら、アメリカ合衆国の態度はまったく不可解である。
しかし、戦略の次元で評価するなら、アメリカの判断はごく合理的で適切なものと私には思われる。
彼らにとって60年以上前に太平洋で死んだ自国兵士の「英霊」たちはとりあえず副次的な問題でしかない。
喫緊の問題は「今後の」アメリカ合衆国の東アジアにおける政治的・軍事的プレザンスをどうやって確保するかである。
アメリカは東アジアにおける彼らの政治的プレザンスがしだいに「危機的」なものになりつつあることを感知している。
21世紀に入ってから、日中韓の三国の経済的・文化的リンケージは急速に(おそらくアメリカの予測を上回るスピードで)深まった
「日中韓東アジア共同体」ブロックの創成が具体的な政治日程にのぼってきた。
今年の12月には「東アジア共同体サミット」が開催され、ここで政治的な合意が果たされ、共同声明が発表された場合、地域内での共同体をめざす世論は一気に加熱する。
それは南北朝鮮の統一や台湾の「プレイヤー」としての承認を含む劇的な東アジア秩序再編という「不可避の」トレンドの水門が開くということを意味している。
アメリカがもっとも恐れているのは「そのこと」である。
3月に来日したライス国務長官が残した重要なメッセージは「東アジア共同体の創設を許さない」ということばであった。
なぜなら、東アジア共同体の創設は、そのままアメリカが東アジア政治のキー・プレイヤーである時代が「終わる」ということを意味しているからである。
彼らが望んでいるのは、アメリカを含んだ「パン・パシフィック・ブロック」である。
ブロック内パートナーとして中国を内側からコントロールするという立ち位置と、太平洋の反対側から「アウトサイダー」として東アジアを統制しようとするのでは外交の効率が違う。
現在、世界戦略の最重要エリアは東アジアである。そこにキー・プレイヤーとして踏みとどまることにアメリカは外交的リソースを集中的に投入している。
「アメリカ抜き」の東アジア秩序の再編はアメリカにとって最悪のシナリオである。
いかなる手段を用いても、それを阻止し、ブロック内の最重要メンバーとして東アジアにとどまること。
これがアメリカの戦略のとりあえずの「基本方針」である。
私が国務省の役人であれば、そのために使える材料はすべて使う政策を上司に提言するだろう。
帝国主義国家の伝統的なアジア戦略は「分断統治」である。
アヘン戦争のときからあまり変わっていない。
アジア諸国のあいだに利害対立を持ち込み、当事者による調停が不可能な状況を作り出して、外国の「干渉」を当事者たちが呼び求めるというかたちにしつらえることについて彼らには150年の外交史的蓄積がある。
日中韓の三国のあいだに調停のむずかしい「きしみ」があり、その調停役として絶えず三国がアメリカの干渉を要請せざるをえないという事態をキープしておくことは、アメリカにとって伝統的なアジア戦略に照らしてごく標準的な政策である。
今朝の朝日新聞に興味深い社説が出ていた。
「南北の五年」と題するこの社説では、南北朝鮮の統一が遅れていることの理由を北朝鮮による核開発であるとしている。
それにつづけてこう書いている。

「核問題は民族間の努力だけでは解決できない。日米や中国、ロシアなどを巻き込まないと朝鮮半島問題の展望はひらけないことがはっきりしてしまった。韓国はこの変化にどう向き合うのか。『民族』『自主』への思いはそれとして、目指す方向を練り直し、より具体的に示す必要があるのではないか。その意味で先週、ワシントンを訪れた盧武鉉大統領がブッシュ大統領との会談で、きしんでいた米韓同盟の重要性を再確認したことを評価したい。」

私たちは「これと同じ」ロジックで外交を論じる文章をこれまで繰り返し読まされてきた。
「・・・問題は当事者だけでは解決できない。アメリカの参加が不可欠だ」ということばはなぜか外交を論じるときの日本のメディアの常套句である。
ほかのことになると「問題を簡単にすること」にたいへん熱心な日本のメディアは、どういうわけけ、ことがアメリカがらみの外交問題になると「当事者にさらにアメリカを加えて事態をいっそう錯綜させること」をベストのソリューションとして提言する習慣がある。
中東問題でも旧ユーゴスラヴィア問題でも六カ国協議でも、つねに日本のメディアは「プレイヤーをふやして、事態をややこしくすること」を提言し続けている。
重大な外交案件については、関与者をふやし、別の問題と「リンケージ」させて膠着状態をつくりだすことは外交の「基本」である。
誰にとっての「基本」かといえば「ステイタス・クオ」から受益している国にとっての「基本」である。
状況が大きく変化することよりも膠着状態のままであることからの方が大きな利益を得られると判断する国は、必ず「プレイヤーをふやし、リンケージをはりめぐらす」戦略をとる。
朝日の社説は一見すると「アメリカに注文をつけている」ように読めるけれど、「アメリカのコミット」がない限り世界秩序は安定しないと呪文のようにつぶやいているという点では、アメリカ国務省がもっとも喜ぶタイプの外交的提言なのである。
そんなことはないというのなら、同じ論説委員がどうして「靖国問題は日中日韓間の努力だけでは解決できない。アメリカを巻き込まないと靖国問題の展望はひらけないことがはっきりしてしまった」と書かないのか?
理由は簡単。
靖国問題にアメリカは「すでに」プレイヤーとして参加しているからである。
アメリカは小泉首相の靖国参拝を許可(あるいは奨励)するという仕方ですでにこの問題に深くコミットしている。
それによって生じる日中韓のフリクションが東アジア共同体の政治日程の進行を「先延ばし」にするとりあえずは有効な政治カードの一枚だからである。
小泉首相が靖国参拝に固執するのは、彼もまたこのアメリカの東アジア戦略に「同意」しているからである。
東アジア共同体の創設はただちにアメリカの極東における軍事的プレザンスの後退を意味する。
在留米軍基地を失った日韓は、現在の国力を比較するなら、「中国の圧倒的な軍事力」の前に政治的にも圧倒される可能性が高い。
日本の政治家の中に、この新しい東アジア共同体の中で中国や統一朝鮮の政治家たちと五分でわたりあえるだけの外交的手腕と戦略的思考を備えた人物はいない(それだけは確言できる)。
小泉首相もたぶんそのことを知っているのである。
小泉首相は独特な仕方でナショナリストである(私はそのことについてはかなりの確信をもっている。かれもまた彼なりに国益を配慮しているのである)。
だから、熟慮の上で、「中韓の風下に立つくらいなら、アメリカの風下に立ち続ける方が日本国民の自尊心と国民的統合の保持の上ではベターな選択である(アメリカへの服従ならもう60年やっているので、改めて屈辱感を覚えることもない)」という政治的決断を下したのである。
私はそういうことではないかと小泉首相の胸中を想像してみる。
そういう理路なら私にも「納得がゆく」。
彼が靖国にこだわるのも、歴史問題の解決を遅らせているのも、日本がアメリカの庇護を離れた「スタンド・アロン」のプレイヤーとなったとき、東アジアの政局の中で中韓やASEAN諸国とわたりあうだけの政治的力量を備えた政治家が日本には存在しないということを彼が知っているからである。
たぶん、そうじゃないかと思う。
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