業務連絡の顛末と中国学歴事情

2005-06-14 mardi

「業務連絡」に六社から出版のオッファーが来た。
まことにありがたいことである。
「早い者勝ち」としたとおり、こういうのは「ご縁」のものであるので、出版社の大小知名度営業力とかかわりなく、最初に手を挙げたところに落札される。
応札されたのは講談社、N実業出版社、Xナレッジ、Pプラ社、Y泉社、T摩書房の順であった。
一番に挙手された講談社はブログ掲載直後にメールが届き、二番手との時間差は9時間。
ブログ上でアナウンスしたのが業務時間外の土曜日深夜であったため、まっとうな時間に就寝する方と企画を通すのに上司の決裁が必要なところは出遅れたようである。
講談社の加藤さんは「夜更かし体質」であり、かつご自身で決裁できるひとなので、ブログ観測から挙手までの時間差が有意に短かったのであろう。
このやり方を試みるのは二度目であるが、こういう「バザール」的な企画出品が可能であるというのがネット・コミュニケーションのよいところである。
このスタイルだと、出版企画が「書き手発信」でパブリックな情報として共有される。
書き手にとっても、出版社にとっても需給にかかわる情報が共有されるのは、とりあえずよいことであると思う。
今回出遅れた五社のみなさんにはせっかくお声をかけていただきながら、まことに申し訳ありませんでしたけれど、そういうことでご了承ください。

月曜は「ちかがい」という大阪の地下街のPR誌の取材を受ける。
私はご存じのとおり街に出ないで、家と大学をひたすら往復しているだけの人間である。その私に「街づくり」について訊くというのは、文字通り「木に縁りて魚を求むる」「デブにダイエットの秘訣を訊く」にひとしく、いったいエディターの方が何を考えているのか遠く私の理解を超えているのであるが、取材の方が「ウチダ本の読者」ということになると、「リーダーズ・フレンドリー」を掲げる私としては断ることができないのである。
2時間ほど「大地の瘴気」や「龍脈の力」などオーギュスタン・ベルクと浜田雄治くんから仕込んだ「店舗開発ネタ」を開陳してご機嫌を伺う。
それにしても、大阪地下街の今後のショップ展開とか高齢化社会における地下街のあり方などというものについて私に訊かれても、ねえ。
火曜日は「本願寺新報」という浄土真宗系新聞の取材を受ける。
これは『インターネット持仏堂』の販促活動の一環であり、取材の記者たちは「魔性の女」から切り火を打ちかけられて派遣されている青年僧侶たちで、いわば身内の取材である。
レヴィナス先生がいかにすぐれた哲学者であり、また釈先生がいかにすぐれた宗教家であるかについて滔々と論じる。
私はそこにいないひとをほめることになるとたいへん弁舌爽やかになるので(そこにいないひとをけなすときはさらに舌鋒鉄石を砕くまでになるが)、取材はスムーズに進行する。
私のみるところ(って、多田先生とラリー・トーブさんの受け売りなんだけど)、21世紀は「霊性の時代」となる。
「霊性」と向き合う知とは、「非 - 知」を欲望する知ということであり、その点で宗教的知性は本質的に科学的知性なのであり、それはきわめて技術志向的な知とならざるをえないというような話をする。
「ラカンと親鸞」という主題でどなたか研究書をお書きになるとたいへん面白いことになる気がする(「レヴィナスと親鸞」よりぜったいこっち)。
若い真宗学僧の方はぜひご一考願いたいものである。

大学院ゼミは「中国の教育事情」。
しだいにディープでコアな論件に進んで行く。
学歴とプロモーションがきっちりリンクしているという意味で、現代中国は東アジア屈指の「学歴社会」である。
ただ、「学歴社会」の合法性は、「単位」や「学士号」の国際共通性という「幻想」を基盤にしている。
中国社会はまだ「学歴」リテラシーが低い。
だから、本国では大学進学率6%というエリートのパスポートである学士号が、金さえ積めば外国なら簡単に入手できるという「仕掛け」をまだ国民の過半は知らない。
わが日本国はすでに「学歴社会」を脱した「学歴成熟社会」であるが、そのことは「学歴」の内実について、かなり詳細な評価情報が公開され共有されているという情報インフラの整備によって担保されている。
私たちの社会では、単なる「学士号をもっています」というような言明はプロモーション上ほとんど意味をもたない。
「学歴リテラシー」(つまりどのような大学でどのような手続きを経て「学士号」を取得したのかによってその軽重を査定するノウハウ)を中国社会はまだ持っていない。
いまのところ中国における学歴はストレートに「きわめて換金性の高いサーティフィケイト」である。
ある種の「商品」である。
この商品が欲望の対象として流通する時期がしばらく(10年くらいは、あるいはもっと)続くだろう。
おそらくその間、中国には世界中から「教育ビジネス」「教育プロバイダ」「デグリー・ミル」の類が巨大な市場から金を吸い上げるために乱入する。
あるいはもうすでに「e-learning」による学位授与システム というようなかたちで入り込んでいるかもしれない。
日本の大学の中にも、中国を「学歴商品」の巨大マーケットと見て、参入計画を実行しているところがあるかもしれない。
しかし、ロングスパンでいうと、21世紀の中国の若者たちがほんとうに必要としているのは、換金性の高い「英語やITの知識」や「プロモーションのための学位」ではなく、「リベラルアーツ」なのではないかと私は思う。
そして、そのようなものを提供する教育的インフラや、そもそもそのようなものを提供しなければならないという切実さを現代中国に見出すことはむずかしい。
私たち日本人が隣国に提供できる最良のものはおそらく「今のところほとんど需要がないもの」である。
でも、それを差し出すことが「学歴成熟社会」に達した日本の隣国に対する責務のひとつではないかと私には思われるのである。
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