国際感覚について

2005-06-12 dimanche

『文藝春秋』が送られてくる。
先月、「小泉首相の靖国神社参拝の賛否」を問うアンケートが私のところにも回ってきたので、「反対」として、その理由を数行書いた。
その掲載誌が送られてきたのである。
アンケートだけまとめて読んだ。
字数の限られたアンケートへの回答だから、どなたもあまり踏み込んだ議論はしていない。
けれども、わずかな字数からでも、わかることはわかる。
「参拝すべき」と回答した中で、中国政府の「悪口」を書かずに、感情を排して法的・論理的・政治的な判断のみに依拠して論じていたのは宮崎哲弥、橋爪大三郎ら数名だけだった。
残る過半は「反日デモは胡錦濤のヤラセ」とか「シナ人に固有の中華思想に屈するな」というような感情的なことばづかいで中国政府を非難することを自制することができずにいた。
私が靖国問題で参拝に反対するのは、日本の一部で栄えているこの種の「節度のなさ」に対する不信が大きな理由を占めている。
前にも紹介したけれど、私がアンケートに書いた答えは次のようなものである。

「隣国と正常で友好的な外交関係を維持することは重要な国策の一つである。
戦没者の慰霊も国民的統合のために重要な儀礼の一つである。
どちらが優先すべきかについての汎通的基準は存在しない。
複数のオプションのうちどれがもっとも多くの国益をもたらすかを比較考量して、そのつど定量的に判断すべきであり、ことの正否を一義的に決する審級は存在しない。
『靖国に参拝することによって得られる国益』が『それによって損なわれる国益』よりも大であることについての首相の説明に得心がいけば私は靖国参拝を支持する。
私が首相の参拝を支持しないのは、自らが下した重大な政治判断の適切性を有権者に説得する努力を示さないからである。
自らの政治判断の適切性を有権者に論理的に説明する意欲がない(あるいは能力がない)政治家を支持する習慣を私は持たない。」

私が知りたいのは「靖国参拝によって得られる国益」が「それによって損なわれる国益」よりも大であるという政治判断の根拠である。
私が問題にしているのは、小泉純一郎個人のエモーションの純良さやその憂国の至情ではない。
政治的効果という一点である。
政治家の仕事は国益の最大化である。
何度も繰り返すが、私はそう思っている。
平川くんが昨日か一昨日のブログで「国益ということばが好きじゃない」と書いていた。その点では私の方が平川くんよりも「ビジネス・マインデッド」な人間なのかもしれない。
私が「国益」ということばに託しているのは「領土の保全・実効的な法治・通貨の安定」というたいへんリアルでクールな条件である。
もっとも確実のこの三つの条件が満たされるオプションを選択し、そのようにして選択したオプションはなぜ選ばれなかった他のオプションよりも国益の増大に資する蓋然性が高いのか、その理路を適切な論拠を示し、できるだけロジカルに国民に説明するのが政治家の仕事である。
政治家の重要な仕事はそれに尽きると私は思う。
自分の政治的イデオロギーとか宗教的信念とか芸術的好尚というようなものは節度ある政治家が口にすべきことではない。
このアンケートには評論家や学者や作家たちが回答していた。
彼らは別に国益の最大化を責務とする政治家や官僚ではないから、私見を自由に書く権利がある。
しかし、それでもこの『文藝春秋』を読む中国の政治家や評論家や学者や作家たちがいること(必ずいる)、彼らが自分の文章をどう受け止め、その印象が今後の日中関係にどのような影響を与えるだろうか…については多少の想像を試みてもよいのではないだろうか。
残念ながら、そのような条件を意識的にみずからに課して文案を推敲したと思われる人間をアンケート回答者の中に見いだすことに私は多大の困難を覚えた。
「国際感覚」というのは英語がしゃべれるとか外国の政界裏事情に精通しているとか統計資料の数字を暗記しているとかいうことではない。
自分の語るひとつのことば、ひとつのみぶりが、その主観的意図とはかかわりなく、国際社会のネットワークの中でどのような「記号的なふるまい」をすることになるのかについて、あたうかぎり想像力を発揮できる能力のことである。
ひとの国際感覚の程度を知りたいと思ったら、比較的簡単な方法がある。
そのテクストを「外国語訳」してみればよいのである。
そうすれば書いた人間に「国際感覚」があるかどうかはすぐにわかる。
『文藝春秋』は日本を代表するオピニオン誌のひとつである。それが日中関係の焦眉の論件である「首相の靖国問題」を扱っている。
当然、これが海外の日本ウォッチャーやメディアや国際関係論の専門家に「資料」として閲読される可能性は高い。
「識者」と呼ばれる方々である以上、その程度の「常識」は備えているだろう。
その上で、「外国語に翻訳される可能性」を想定して書かれている文章がいったいこの81編のうちに何編あるか数えてみるとよいと思う。
「外国語に翻訳される可能性」を想定して文を草する人間は次のような条件を自らに課すものである。
論理的で明確な統辞法を以て書かれること。
日本人以外にはそのコノタシオンが伝わりにくい語を用いないこと。
多くの外国人読者に読まれることが日本人の知性に対する信頼や敬意の積み上げに資するような知見や情報を含んでいること。
今日本のメディアで発言する人々のうちでこのような意識を持って言葉を発している人間は、残念ながら、ごく少数に、悲しいほど少数にとどまっている。
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