声のいい男について

2005-06-09 jeudi

オフのはずの水曜日であるが、自己評価委員会の報告書をかりかり書く。
「かりかり」状態で書いたのでたいへんアグレッシブな内容になり、読まれた学内のみなさん方はどれほど激怒されるだろうか心配になる(心配するくらいならそんなこと書かなければよいのだが、それができないところが人間の出来具合の浅さである)。
とはいえ、うかつなことを書いて、温厚にして知性あふれる遠藤委員長の今期の活動に支障が出るといけないので、とりあえず大学事務長の東松さんに閲読を乞う。
クールな銀縁眼鏡越しに一読した事務長からは「ま、こんなもんでしょう」と涼しい顔のコメントを頂いた。
そういってはいただいたものの、事務長も学内各所で「虎の尾」を踏むことについては、どちらかというと前向きの方なので、そういう「前向きのふたり」の合意事項がはたして全学的な標準からして妥当なものであるかどうかはなはだ心もとない。
「抑え」に学長室長の閲読も乞うておく。
しかし、よくよく考えると、学長室長も私が学長室で「ちょっと聞いてくださいよお」と「放送禁止用語」を乱発しているときには「先生、そんなことめったなところで口にするものではありませんよ」とたしなめはするのであるが、そう「たしなめる」ことばのはしにふと不用意な笑みが漏れたりはするのである。
4時過ぎに改稿を終えて、音楽学部のホールへ走り込む。
声楽の斉藤言子先生との「音楽との対話」の合同講義。
テーマは「声」。
声の「肌理」や、声の「響き」という、このところ気になっている論点について、プロの声楽家のご意見を伺う。
能楽の謡の発声とベルカント唱法の比較から始まった話は途中から脱線に脱線を重ねて、「石原裕次郎と大瀧詠一の鼻濁音」「ペ・ヨンジュンの声の説得力」「つけまつげのもたらすコヒーレンス」から意拳の站椿とオペラのポーズの相似点など、とどまるところを知らず暴走し、私としてはたいへんに愉快かつ有意義な一時間半であったが、私の暴走トークにひっかきまわされた斉藤先生と「あっけにとられて」聴講していた数十人の学生さんたちはどう思われたであろうか。
それにしても、それから気になって家に帰って見た(二度目の)『冬ソナ』のペ・ヨンジュン、チェ・ジウの鼻濁音のなんと美しいことであろうか。
ユジンがチュンサンを万感をこめて呼ぶときの「チュンサンガ」の最後の「ガ」はこの上なく美しい鼻濁音であるが、チュンサンがユジンを呼ぶときの「ユジナ」の「ナ」の音も「ン」と「ア」を連音する微妙に鼻濁音的な音である。
『冬ソナ』を評するひとのほとんどはストーリラインや俳優の個人情報の詮索に終始しており、その「発声」の美しさに論及するひとを私は絶えて知らない。
しかし、あのよくよく考えるとまるでほんとうらしからぬドラマに圧倒的なリアリティをもたらしているのは、主人公ふたりの「声の肌理」のやさしさなのである。
ペ・ヨンジュンの声はそれが誰にかたりかけられるときであれ(キム次長に仕事の指示をするときでさえ)、うっすらともやがかかったような不思議な「ゆれ」を伴っている。
チェ・ジウの声は、彼女が「不愉快」な気持ちを演じるときには「不愉快なざらつき」を伴うのであるが、ペ・ヨンジュンの声は彼がひとを叱責するときでも、うんざりしているときでも、「肌理のこまかさ」が変らないのである。
こういう声は人間の奥底からしか出てこない。
私は昨日「声のいい俳優」の代表として、クラーク・ゲイブルとハリソン・フォードをあげたけれど、たぶん(あったことないからわからないけど)ふたりとも、すごく「いい人」なんじゃないかと思う。
ハリソン・フォードの「いい人」ぶりについては町山智浩さんがブログに最近書いていたのでそちらを見て頂くとして。
昔読んだビリー・ホリディの伝記『奇妙な果実』(いまにして思えば訳者は大橋巨泉だ)に印象的なエピソードが記してあった。
うろ覚えだけれど、こんな話。
ビリー・ホリディがロサンゼルスに仕事で来たことがあった。
ともだちの女性と二人で自動車で郊外にドライブに出かけた。
そしたら車がパンクしてしまった。
ふたりとも車の修理の仕方なんかぜんぜんわからないので、呆然として路肩に立ち止まって通り過ぎる車に合図を送るのだが、派手な服装をした若い黒人女ふたりのために停まってくれる車はなく(40年代のことで、黒人差別がいまからは想像できないくらいに厳しい時代のことだ)、ふたりは困惑しはてていた。
そこに洒落たスポーツカーが通りかかり、ドライバーはふたりを見ると停車して、すたすたと歩み寄り、「パンクしたの?」と訊いてきた。ふたりがうなずくと、手際よくスペアタイヤと交換して、「気をつけてドライブしなよ」と言って、ふわりと運転席に乗り込んで走り去って行った。
ビリー・ホリディが「いい男だなあ…」と後ろ姿を見惚れていたら、友だちの女の子がビリー・ホリディの手を抑えて、「ね、ビリー、今の誰だかわかってたの?」と訊ねた。
「誰?」
「クラーク・ゲイブルよ」
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