献本御礼ならびに「学び」について

2005-06-07 mardi

次々と本が届く。
柴田元幸先生から『アメリカン・ナルシス』(東京大学出版会)。
いったい柴田先生は年間何冊本を出しているのであろう。
最初はお礼状をきちんと書いていたが、あまりのハイペースにお礼状が間に合わず、やむなく「本に報じるに本を以てする」方針にシフト。
若い仏文研究者たち(安原伸一朗、西山雄二、郷原佳以)の共訳の『ブランショ政治論集』(月曜社)をいただく。
400頁の大物である。
つい先日谷口博史くんから『私についてこなかった男』(書肆心水)の新訳を頂いたばかり。
どうやらブランショ再評価の動きがひそかに起こっているらしい。
何度も書くけれど、私はブランショの『終わりなき対話』(Entretien infini, 1969)の全訳が20世紀のあいだに出せなかったことを日本の仏文学者の犯した最大の失敗のひとつだと思っている。
あの本が1970年代に日本語で読めるようになっていたら、おそらく現代の日本人の知性はコンマ何ポイントが上がっていただろう。
それだけの知的なインパクトのある書物というものが存在するのである。
翻訳というのはアカデミズムの世界では相対的に評価の低い仕事で、学界的な査定基準では、10年かかって仕上げた1000頁の翻訳よりも一月で書き上げた10頁のペーパーの方が評価ポイントが高い。
でも、専門家しか(専門家でさえ)読まないようなペーパーを書いて評価ポイントを稼ぐことよりも、海外のすぐれた作家や思想家の業績を、誰でも読めるかたちで提供する仕事の方が、学問的な「贈り物」としてはずっと上質のものではないのだろうか。
残念ながら、そのような「雪かき仕事」に打ち込む学者はほんとうに少ない(柴田先生のような方は例外中の例外である)。
それゆえ、私は谷口くんや安原さんたちの労を多とするのである。
みなさんも訳書買って、翻訳者の「雪かき」の応援をしてくださいね。
ブランショはいいですよ。
N大の葉柳先生からマックス・フリッシュ論の抜き刷り二冊が送られてくる。
葉柳先生のフリッシュ論もだいぶたまってきて、そろそろ単行本になるそうである。
「(そう言うことは決してないと思いますが)もしお暇な時がありましたら、ご感想を聞かせていただければ幸いです。」
と同封の手紙に記してあった。
ごめんね葉柳くん。
夏休みが始まるまで「そういうことは決して」なさそうな見通しです。
銀色夏生さんから『川のむこう つれづれノート14』(角川文庫)が送られてくる。
すてきな自筆ブタの絵入りカード添えである。
「先ごろ読んでとてもよかった本」として三砂ちづる先生の『オニババ化する女たち』(光文社新書)と私の本を紹介して下さっている。
どちらもとてもゆきとどいた、親切なご紹介だった。
銀色夏生さんはよい人である。
さっそく自筆ネコマンガ入りお礼の手紙を出す。
朝日新聞「紙上講義」もいろいろあったが無事終了(三回目の掲載は来週の月曜だけど)。
三週目は読者から寄せられた宿題の回答をするのである。
宿題は一週目に出したもので、「大学では何が学べないか?」
もちろん、こんな問いに正解はない。
「企業は何をしないところか?」とか「家族とは何を言ってはいけない関係か?」というのと同じで、問題を「根源的に」考えるための方便である。
「大学では実社会のことが学べない」というような「まじめな」回答はご遠慮願って、私の「挑発」にあらわな不信のマナザシを以て切り返してきた答案を三つ選ぶ。
かりにも課題と回答なのであるから、「成績評価基準」というものがあらかじめ示されていなければならない。
どういう答案を「すぐれたもの」とするかの基準を示さないで課題を出すというのは、すでにルール違反を犯しているのである。
だから、「ウチダがしているのはルール違反であり、このようなふざけた課題には回答できない」という回答ももちろん「あり」である(そう回答をしてきた人はいないけれど)。
しかし、学びの場における真に教育的な課題はつねに「ルール違反」を通じて行われていることを忘れてはいけない。
つねづね申し上げているように、「学び」のもっとも起源的な形態は「母語の習得」である。
「そろそろ学齢期だし、ぼちぼち日本語でもやっとくか」というような判断をなされた上で母語習得を始める赤ちゃんというものは存在しない。
赤ちゃんが母語を学んでいるとき、赤ちゃんには「言語」という概念がない。
もちろん「コミュニケーション」という概念もないし、「熟練した母語運用能力を生かした職業に就きたい」というような就活事情もない。
赤ちゃんは「自分が何を学んでいるのか知らないことを学んでいる」。
それどころか「『学ぶ』とはどういうことかを知らないうちにすでに学んでいる」のである。
これが「学び」という遂行的なプロセスの本質である。
ほとんどの人は「学び」というのは、「有用な知識や情報や技能」を主体的に獲得してゆくことだと思っている。
違いますよ。
「これから学ぶこと」は定義上「まだ学んでいないこと」である。
「まだ学んでいないこと」が「有用」であるかどうか、どうしてわかるのか?
それが何を意味し、どんな価値があるのか、どうしてわかるの?
もし学ぶ前にあらかじめそういうことが「わかっている」のなら、それは「学び」ではない。
学ぶとは、母語を習得している赤ちゃんがそうであるように、自分が何を学んでいるかを知らず、そもそも自分が学びのプロセスに巻き込まれていることにさえ気づいていないというかたちにおいて遂行されるものなのである。
だから、「学校に行って、これこれの知識や技術を身につけたい」というようなことを軽々に口走らない方がよろしいと私はつねづね申し上げているのである。
学校に行くのはよいことである。
それはそこにゆくと、「自分がその意味や価値を知らないこと」や「『自分がその意味や価値を知らないこと』さえ知らなかったこと」に偶然ゆきあうチャンスがあるからである。
そこをうろうろしていると、「あちら」の方から「ぐいっ」と襟首をつかんでくれるチャンスがあるからである。
お母さんが赤ちゃんにことばを教えるときと同じように、「学び」の場というのは学生諸君が主体的決断にもとづいて進んで行くところではなく、いきなり襟首をつかまれて「ひっぱりこまれる」場なのである。
ラカンは教育者としてもっともすぐれた業績を残した現代人のひとりであるが、彼が「ラカン派」を形成した仕方は教育実践の範例となるべきものである。
彼は出会った若者たちにこう告げたのである。
「ラカンを欲望せよ。なぜなら、君はどうして自分がラカンを欲望しなければならないのか、その理由を知らないが、私はその理由を知っているからである。」
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