悪夢とコピーライツ

2005-06-07 mardi

学長室に呼ばれて、行ってみると、私の本を手にした学長から「ウチダ先生、こんなことを書かれては困ります」と叱られた。
しょんぼり廊下を歩いていたら、今度は私の本を手にした飯田先生につかまって、「ウチダ先生、こんなでたらめな論証して、それで学者として恥ずかしくないんですか」と詰問された。
どちらの言い分も事実なので反論できず「ごめんなさいごめんなさい」と謝っているところで目が覚めた。
妙にリアルな悪夢だった。
もう一度寝付いたら、今度は石川茂樹くんに会いに行く夢を見た。
どういうわけか石川君は池上線の池上駅のトイレに住んでいる。
床に腰を下ろして二人で話し込んでいると、次々とトイレの利用者が横を通ってゆくのが気になって仕方がない。
「なんとかならないの」と石川君に苦情を告げると、「じゃあ、カヌーがあるよ」と線路の脇から布張りのカヌーを取り出す。
どうしてカヌーで池上駅のトイレ問題が解決するのかわからないうちに、小さい子どもが三人やってきて、ぼくの方を向いてズボンのチャックを下げて、ちいさいおちんちんを見せて、じゃあじゃあおしっこをかける。飛沫が顔にまで飛んでくるが、相手が二歳児くらいの赤ちゃんなので叱るわけにもゆかない。
おいおい堪忍してくれよ、とつぶやいているうちに目が覚めて、トイレに行く。
これはフロイトのいうところの「願望充足夢」である。
トイレに行って放尿したいのは私自身なのであるが、これを夢の中では別の人々の行動に転嫁して、切迫する便意を物語的に処理していたわけである。
どうもろくな夢を見ない。
これは昨日池上先生三宅先生に治療していただいて、全身の細胞が「ゆるんで」しまったせいと思われる。
細胞のひとつひとつから「疲労物質」が染み出しているような不思議な疲労消失感が続いている。
10時間寝て鏡をみたら、ひさしぶりにさわやかな顔をしていた。
起き出して『エピス』の原稿をさらさらと書く。
今日の映画はリー・リンチェイ&モーガン・フリーマンの『ダニー・ザ・ドッグ』
リュック・ベッソンが脚本なので、『サブウェイ』や『レオン』や『グラン・ブルー』や『フィフス・エレメント』と同じ話である(この4作のどこが「同じ話」なのかわからない人にはわからない共通点であるが)。
リュック・ベッソンがどういう説話原型に固執しているのか、だんだんわかってきた。
なかなかに「深い」映画なので、『エピス』の字数では踏み込んだ分析に足りないのが残念である。

帝塚山大学というところの現代GP採択プロジェクト「知的財産教育の法・政策・実務に強い人材の養成」のシンポジウム「教育現場における著作権問題を考える」にパネリストとしてお呼びいただいている。
どうして私のような人間がそういう席に呼ばれるのか、理由がわからない。
私はご存知の通り、「コピーライツ」というものの自明性に懐疑的な人間である。
私たちの「表現」(ということばも好きじゃない)の99%はすでに存在する素材の「コピー&ペースト」あるいは「コラージュ」である。
「ライツ」があるとすれば、それは「コピー&ペースト」の「手際のよさ」について「技術料」としていくばくかの対価を受け取る権利だけだろう。
私は先般『文學界』に日本における反ユダヤ主義についてかなり長い原稿を書いたが、その95%ほどは宮澤正典・デイヴィッド・グッドマン両先生の『ユダヤ人陰謀説』(講談社、1999)の「祖述」である。
他人の書物をすいすいと写して、それで原稿用紙を埋めて『文學界』の原稿料をいただいたのである。
ずいぶんではないかと思う方もおられるであろう。
けれども、500ページもある専門書の中の関連箇所を抜き出して要約するというのは、それなりに「技術」の要る作業である。
こういうのはやったことのある人でないとわからない。
けれども、いくら切り貼りの手際がよくても、この祖述部分は私の「オリジナル」であるとはいえない。
しかし、それにもかかわらずこの祖述を含む書物が刊行された場合、印税はまるっと私のものであり、宮澤先生グッドマン先生にはお会いしたときには「あ、その節はお世話になりました。ま、ご一献・・・」というようなことはあるだろうが、別に先生方から印税の独占についてきびしいお咎めを受ける、というようなことはないように思われる。
むしろ、「あ、ウチダくんが宣伝してくれたので、『ユダヤ人陰謀説』けっこうあれから出ましたよ。どうもどうも、ま、ご返杯」というような展開になる可能性のほうが高い。
そういうふうに「や、どうも」「ま、これがこの」的にぼんやりとコピーライツなるものの輪郭があいまいになってゆく方が学術情報の運動にとってはよいことではないか、そう私は思っている。
私が今度のシンポジウムに呼ばれるいちばん大きな理由は、私の書いたものが高校大学の入試問題に使われ、それが予備校や進学関係出版社の出版物に二次利用されているからである(らしい)。
私は試験問題がコピーされるたびにいくばくかの著作権料をいただいている。
黙っていても銀行口座にお金が振り込まれているわけであるから、うれしくないはずがない。
しかし、よくよく眺めてみると、二次利用されている試験問題には「同じもの」が多い。さまざまな出版社が「良問」として選択した中に同一の試験問題が繰り返し現れるのである。
つまり、この場合、私のテクストが二次使用される機会がふえたのは、オリジナルの私の文章が「名文」だったからではなくて、それをつかって作った試験問題が「よい問題」だったからなのである。
だから、同じ箇所を試験に使いながら、問題集には採択されない(したがって私に二次利用の著作権料をもたらさない)問題も当然ある。
つまり、著作権料が発生するしないの差を構築したのは、出題者の問題作成能力であり、原著者のテクストは関与していないということになる。
だとすれば、二次使用の著作権料を受け取るべきなのは、私のテクストをいじりまわして達意の問題文をこしらえて付加価値を生成した出題者の方にあると考えるべきではないのか。
私は「知的財産」というワーディングがどうしても好きになれない。
知の本性は(貨幣と同じく)「運動」にあり、多くの運動をもたらすもの(多くのひとに繰り返し言及され、繰り返し引用され、繰り返し「コピー&ペースト」されるもの)が知的に価値の高いものである。
私はそう思っている。
しかし、コピー&ペーストに課金されれば、かならずや知的資産の「運動性」は損なわれる。
流動性を失った知的資産というのは、換金できない貨幣と同じく、ただのゴミである。
知的資産の使用に課金しようとするひとは、それが資産をゴミ化することだということに気づいていないのではないか。
では、なぜそういうウチダは印税や原稿料を受け取るのか。それは知的資産に課金して流動性を損なっていることにはならないのか、と異議を申し立てる人がおられるかもしれない。
私が私の書き物に課金する理由は簡単である。
それは「身銭を切って手に入れたテクストの方が無料で頒布されているテクストよりも真剣に読まれる」からである。
だから私は「泣く泣く」課金しているのである。
無料で読めるテクスト(たとえばこのテクスト)を読んでいる読者は、この同じテクストが単行本に採録されて、それに1500円なりの対価を投じて購入した後に読んでいるときよりも有意に注意力が散漫になっている(「あなた」が今そうであるように)。
そんなことはない、私はどのような条件でも同一の注意力をもってテクストを読んでいる反論される方がおられるかもしれない。
そうだろうか。
私はそのような主張ににわかには与することができない。
私を説得しようと思ったら、このテクストが単行本化されたときにただちに代金を投じて購入し、しかるのちにこの同一テクストを読んでから出直していただければと思う。
そのときにはじめて「無料で読めるテクスト」と「課金されたテクスト」は同程度の注意深さをもって読まれているというご高説の当否が検証されるであろう。
この実験は確実性を考慮して、できれば一万人、いや十万人程度のサンプルを集めてなされることが望ましいということを科学者の立場からも付言しておきたい。
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