文体について

2005-06-04 samedi

朝日新聞で「紙上講義」というものをやっている。
何時間か記者がインタビューしたものを講義録的にまとめて、それを三週にわたって掲載するという結構のものである。
記者がまとめるといっても、私の「談話」として天下の公器に載るものであるから、「こういう記事にまとめましたがいかがでしょう」というチェックの機会は与えられている。
三週間ほど前に原稿が送られてきたときに、自分のことばとして読まれてもいいように手を入れた。
手を入れすぎたらしくて、そんなに直されては困ると言われた。
面倒になったので「では、そちらのよろしいように」と最終的な文章作成を記者に任せた。
第一週はその文章が出た。
自分の顔写真の横に、私自身のワーディングとは思われないことばが「ウチダのことば」として掲載されているのを見て、気が滅入ってきた。
だから、二週目の原稿の最終チェックのときに、やはり私がさきに訂正した文章にして頂きたいと申し上げる。
内容はほとんど同じままにとどめ、字数もあまり変えないようにして、文体だけを「私らしいもの」に戻した。
これなら、私が朝新聞を拡げて読んだときに、気が滅入ることはない。
しかし、それでは困るという。
一度OKをもらった原稿なので、いまさら直されては困るという。
ではなんのために最終チェックを頼んできたのかよくわからない。
記者がまとめたとはいえ、私の談話として発表される原稿である。
朝日新聞の大学欄の読者の99%は私の本など読んだことのない人々(そして、おそらくその多くはこれからも読まない人々)である。
そのような読者との出会いは私にとって一期一会である。
一期一会だからこそ、「私のことば」をできるだけオリジナルな口調のままに伝えたいと思う。
その要求はそんなに無法なものだろうか?
これまでも何度もインタビューを受けた。
それをまとめたゲラを見せて頂いて、もとのかたちをとどめないほどに朱を入れたこともたびたびある。
せっかく長い時間をかけてテープ起こしをして、苦労して原稿にまとめたのに、ゲラをずたずたに訂正されたら書いたライターはずいぶん「むっ」としただろうと思う。
なんのために書いたのかわからないと思って、私のことを恨んだ人もいるかもしれない。
でも、その文章を私のことばだと思って読み、その一部を「私のことば」として引用する人がいるかぎり、最終的な文章のチェックは私の責任で行いたい。
これまですべてのインタビュー記事で私はそのスタイルを押し通してきた。
それを「困る」と(思った記者は多かっただろうが)口に出して言われたことはない。
朝日の記者と夜遅くに長い時間電話で押し問答したが結論が出なかった。
文体なんかどうだっていいじゃないか、中身はウチダがしゃべったことなんだろう、そんなことでいきりたつなよ、と思われる人もおられるだろう。
だが、文体というのはそれほど軽いものではない。
それは読み手にフィジカルに、ダイレクトに「触れる」ものである。
読み手と書き手の「関係」を瞬間的に決定してしまうものである。
だから、ラカンは『エクリ』の冒頭にこう書いた。

Le style c'est l’homme ( à qui l’on s’adresse).
「文は(宛先の)人なり」

文体は、それがどのような人にどのように差し出されているかをあらわに示す。
書き手が読み手に対してどのような種類の距離感や親疎の感覚や敬意や興味を抱いているかを表すのは文体である。
コンテンツではない。
私が講義でもっとも心がけているのは、「どのような語り口でことばを差し出すか」ということである。
適切に文体が選択されていれば、どれほど難解なコンテンツであれ、あるいはどれほど無内容なコンテンツであれ、それは読み手に「届く」。
文体の選択を誤ると、どれほど平明なコンテンツであっても、誰にも届かない。
ほとんどそういうこと「だけ」を書き続けてきた人間が文体にこだわるのは当然のことではあるまいか。
--------