お断りの日々

2005-06-01 mercredi

毎日のように仕事の依頼があり、毎日のようにお断りする。
なんだか申し訳ないことをしているようで、そのつど心が痛む(しくしく)。
K談社のK藤さんという編集者からお会いしたいというお申し出があったので「仕事の話じゃないなら…」という条件を出して出向いたのであるが、やはり書き下ろしの企画をもちかけられる。
「あ、新規のお仕事はお受けしてないんです」と仕事の話は会って5秒で終わって、あとはベリーニで久保さんのお勧めのフレンチを、ホステス役の本願寺のフジモトくんといっしょにぱくぱく食べる。
K藤さんは『フライデー』の編集長などを歴任された方なので、現場のお話はたいへん面白い。
週刊誌メディアはインターネットの出現によってかなりの打撃を受けているそうである。
部数が落ち込むとかそういうレベルの問題ではなく、速報性にしても、インサイダー情報にしても、「えげつなさ」にしても、総じて週刊誌メディアの「他を以ては代え難い」部分で、「2ちゃんねる」の方に分があるからである。
結局、週刊誌がネット情報と差別化する点は「人気作家の連載エッセイ」とか「著名人の対談」とか、文芸誌とあまり変らないものになっているそうである。
なるほど。
でも、これはどう考えても「変」である。
メディアの社会的使命とは何か?
それは「情報の発信」ではない。
メディアは情報を「発信する」ものではない。
メディア (medium) は、語義の通り、発信源と受信者の「あいだ」にあって、情報を「媒介する」ものである。
「発信」と「媒介」は違う。
メディアの仕事は、世界にうずまくカオティックでアモルファスな出来事の渦の中に手を突っ込んで、ひとつながりの「情報単位」を掬い上げて、それをひとつの「文脈」の中に並べて、読者が携行したり、引用したり、批判したりしやすいように「パッケージ」して差し出すことである。
ネットの情報は本性上「断片」である(それは「断片」であり、「断片」でしかないことに価値がある)。
その「断片」をどういう文脈に位置づけるか(それはその「断片」が「何を意味するか」を決定することである)は読者に委ねられている。
あらゆる情報の意味は文脈依存的であり、文脈をたどらないかぎり、私たちが語る文中のどの一語の意味も確定されない。
だが、現実には多くのネット情報受信者は、「文脈形成」という面倒な作業をニグレクトして、できあいのチープでシンプルな「物語」に、断片的情報を詰め込んで「情報処理」を済ませている。
メディアの仕事は、「情報の発信」ではなく、怠惰な読者が回避したがるこの「文脈の形成」という作業を代理することである。
ある出来事を報じるときに、それとまったく違う時代に違う場所で起きた別の出来事を「並べる」ことによって、その出来事の解釈は一変する。
出来事の報道そのものを改変する必要はない。
それを「どこに」置くか、何の「隣に」置くかで、解釈の幅や方向はまったく別のものとなる。
複数のメディアが併存しているのは、同一の出来事を報道する「違う文脈」が必要だからである。
同一の出来事の報道を「どの文脈」で読むともっとも「意味」として厚みや深みがあるのかを私たちが検証し、吟味できること、それがメディアが私たちの社会に存在することの意義である。
Medium is a message
いま週刊誌や月刊誌メディアが低調なのは、速報性や「えげつなさ」が足りないからではない。
「出来事の意味に厚みや深みを与えてくれる」文脈が存在しないからである。
多くの(ほとんどの)メディアは、すべての出来事を「人間、所詮は色と欲」と「明日も昨日と同じことが起きるであろう」というチープな物語に詰め込んで毎日飽きずに報道している(それはメディアの党派性とはかかわりがない。「何の変化もないチープな物語を繰り返す」点では『諸君!』も『前衛』も『世界』も『週刊女性』もすこしも変わらない)。
上に述べたように、メディアの存在理由は「文脈の多様性・物語のゆたかさ」を生成し続けること、それに尽きる。
私はそう考えている。
メディアが、情報解釈の文脈を狭隘化・単純化することの危険に気づかず、ついにはすべてのメディアが単一の規格的文脈を共有する社会を夢見るとき、メディアは自分で自分の死亡宣告に同意署名しているのである。

家に帰ると、竹信くんの奥さんからメールが来ていた。
高橋源一郎さんとの「竹信悦夫を偲ぶ」対談がなかなかスタートしないので、ご心労のようである。
申し訳ない。
ご令息の卒業したA布学園のPTA総会で講演を、という校長先生からのご伝言を取り次いでいただく。
中高生の親御さんに申し上げたいことは山のようにあるので、ありがたいお申し出で
はあるが、指定された日が推薦入試の当日なので、泣く泣くお断りする。
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