松田優作と『ひよこどん』

2005-05-31 mardi

加藤典洋さんの『僕が批評家になったわけ』にたいへん興味深い挿話が載っていたのでご紹介したい。
リドリー・スコットの『ブラック・レイン』における松田優作の演技について書かれたものである。

「この映画に出演した日本人の俳優には、監督から、あなた方にはシナリオにある通りの日本語の台詞を話してもらうが、北米で上映される際、それには英語の字幕がつかない、そのつもりで演じてほしい、との要請があったそうだ。考えてみれば、これは十分にありうる。というのも、リドリー・スコットといえば一九七九年の『エイリアン』で名をあげた監督であって、十年後に作られたこの映画も、これと同型の物語だからである。日本の狂犬のようなヤクザがニューヨークで殺人を犯した後、日本に護送される。日本に着いた途端、警官に扮したヤクザに騙され、護送にあたった二人の刑事は犯人に逃げられる (…) ここで舞台となる日本という異境を、エイリアンの国と置き換えてみよう。するとこれは、そのまま『エイリアン』である。
日本人のヤクザが、彼ら同士は意思疎通できるが、われわれにはまったく意味不明の言語を話す。そこで話されることはすべてちんぷんかんぷん。不気味。(…)
この指示は、日本人俳優たちには、禅の公案に等しいものだったようだ。
『このシナリオの日本語の台詞で忠実に演じること』
『しかしその台詞は観客に通じない』
『つまり字幕なし』
『そこのところよろしく』
たとえば内田裕也は、映像を見るかぎりこの公案をまったく理解していない。彼は日本の映画でやくざを演じるのと何一つ変らない仕方で、その映画のなか、日本語をしゃべっている。室田日出男、安岡力也しかり。ただ一人の例外が松田優作 (…)
松田優作もまた、同じ脚本を与えられた。ただ彼だけがこの公案に答えた。ここにいわれる『松田の怪演』とは何か。彼の演技はどこでほかの日本人の俳優と違っていたのか。
東洲斎写楽の役者絵は歌舞伎の俳優を過度に紋切り型にデフォルメすることで役者の持ち味を版画に定着してみせた。松田の演技はところどころで写楽の役者絵を思わせる。(…) ほかの俳優がせいぜい、歌舞伎俳優のようにエイリアンとしての日本ヤクザをなぞってみせているとき、彼は、それ自体がなぞりであるところの写楽の役者絵的演技を造型し、いわばなぞりを過度化する形に米人観客にとってのエイリアンたる日本の気狂いヤクザを演じきることで、彼らに彼らの『紋切り型性』を送り返しているのである。」(78-80頁)

加藤さんのこの分析は「定型性」と「批評性」の絡み合いの本質を鋭く抉っている。
定型的なふるまいを微妙に過剰にすることによって、その定型を「ナチュラルなもの」として看過している人々の「紋切り型性」=イデオロギー的な被制性を逆照射してみせること。
これはたいへんリファインされた批評のあり方の一つである。
松田優作という俳優は「演技」をめぐるあらゆる定型的圧力につねに懐疑的なまなざしを向けている人だった。
「それらしい芝居」というのが嫌いで、かといって「自然な演技」(それだとモーガン・フリーマンみたいに、どの映画に出てきても「同じ人」になってしまう)も厭で、結局「それらしすぎる芝居」にまで突き抜けることで、スクリーンやブラウン管と観客との境界線を越えて、いきなり「異物」が突出してくるような存在感をもたらす俳優だった(彼の代表的怪演はこの『ブラックレイン』と『蘇る金狼』だと思う。『金狼』のダメサラリーマン演技は凄い)。
似た感じの演劇性をもった俳優というと、状況劇場にいた大久保鷹くらいしか思いつかない。
加藤さんの字幕の話を読んで、松下藍さんの映画デビュー作『ひよこどんとてれび』のことを思い出した。
松下藍さんは旧友松下正己の愛娘である。
親の因果が子に報いで、ご令嬢もデジタルハリウッド系の映画作家になった。
松下くん平川くん私の『聖風化祭』トリオは全員「一人娘」なのであるが、娘たちは揃って「アート系」の人となってしまったのである。おそらくは、それぞれの父親の生き方に対するラディカルなご批判の表現ではないかと思われるのだが、どのあたりがとりわけ強くご批判を浴びねばならない点なのかは定かにしないのである(定かにされても反省するようなオヤジたちではないが)。
『ひよこどんとてれび』は藍さんのデジハリの卒業制作作品で、先般「娘がこんなん作りました…」と笑顔の(たぶん)松下くんからDVDをお送り頂いたのである。
この短編映画の中で登場人物たちの台詞は「意味不明の外国語」であり、それに日本語字幕がついている。
これはとてもスマートなやり方だな、と思った。
私は総じて外国語字幕付きの映画の方が吹き替えよりも好きである。
その理由がこの映画を観ていてふとわかったような気がした。
それは字幕付きだと、「声を聴く」プロセスと「字を読む」プロセスが「別のもの」だということが意識化されるからである。
映画の中の音声は権利的に「スクリーンの向こう側の世界」に属している。
私たちはそこにはダイレクトにはアクセスすることができない。
字幕は違う。
字幕の文字は、戸田奈津子とかそういうすごくリアルな「業界の人」が、私たちの日常と地続きのところで作りだしている「こちらの世界」の作物である。
つまり、字幕付き画面を見ているとき、私たちは「直接触れることのできない世界」と「直接触れることのできる世界」の「あわい」に立つことになる。
あるいは「あわい」に立っていることを絶えず意識させられる。
この「どっちつかず」の立ち位置に観客を置くことで、あきらかにフィルムメーカーは観客を「操作する」ことが容易になる。
それは片足立ちしている人間なら指一本の力でよろめかせることができるのと似ている。
『ひよこどん』の中で語られている意味不明の外国語(それは機械的に処理されて、さらに「ありえない音声」となっている)は「私たちにはアクセスできない境位に実在する言語」であるかのような仮象を呈する。
それが字幕の効果である。
つまり「字幕」という「こちら側」を際だたせることによって、「画面の中の出来事」という「あちら側」は私たちから遠ざけられる。
遠ざけられることによって、かえってそのラフなアニメ絵の世界が、あたかも日常的な理解力をもっては「不可侵の領域」として、どこか遠い場所に実在するかのように思われてくるのである。
さすがに “映像の催眠術師”(彼の映画を観ているときに睡魔に抗することは誰にもできない)と畏怖された松下くんのご令嬢である。
今後のさらなるご活躍に期待したい。
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