Le mort m'affecte

2005-05-27 vendredi

5月27日(金)
ゼミのあと、会議が三つ。
「眠たい会議」と「疲れる会議」と「悩ましい会議」であった。
この種別は会議のレベルや議題の重要性にはかかわらない。
「当該委員会に議論していることについての最終決定権がない問題」を議論していると、眠くなる。
「すでに機関決定している既決の問題」を執拗に蒸し返されると疲れる。
「どうしたらいいか誰にも正解がわからない問題」を議論していると悩みが深まる。
ときどき、議事の最中に、原案への賛否の論でも動議の提出でもなく、長々と「感想」を語るひとがいる。
あのー、そういうことは自分の家に帰って、日記にでも書いてくれませんか。
(以上、本日の『ダカーポ』日記でした)

加藤典洋さんの『僕が批評家になったわけ』(岩波書店)を読み終わる。
最後の方は「内田樹論」なので、照れくさくて身もだえし床を転げまわって読み終える(騒がしい読者だ)。
書評というのは本一冊についての批評であるから比較的気楽に読めるのであるが、「書き手自身についての評論」ということになると、そのようなふやけた気構えで読めるものではない。
加藤さんはたいへんていねいに(ウチダ自身も知らなかった)ウチダの頭の中身を解明してくださった。
そのような報われること少ないお仕事に貴重なお時間を割いてくださったことに感謝申し上げなければならない。
フッサールについて、ちょっとだけ補足説明したいことがあったので、それをここに書き留めておく。
加藤さんの本を読まれる方は、ついでにこの部分も併せて読んでいただけるとさいわいである。
加藤さんはレヴィナスの「他者」概念とフッサールの「他我」概念がどういうふうに違うのか、仮に違いがあるとしても、そのことがふつうに生きている人間たちにとってそれほど有意な差異なのどうかは内田の説明を読む限りではよくわからない、ということをご指摘されていた。
そのご指摘を奇貨として、ここで「他者」と「他我」の差異について簡単に補足的な解説をしておきたい。

通常私たちは「他者」というものを「遠い人」「隔てられている人」「境界線の向こう側の人」「うまくことばのやりとりができない人」というふうに理解している。
もちろんこの理解でもよいのだけれど、難点がある。
それはこれらの規定はすべてが「空間的表象形式」に依拠していることである。
フッサールの「他我」の説明は「家」や「机」や「さいころ」などのオブジェをもちいた卓抜な比喩で語られるけれど、これらはすべて「ある空間を占めている物体」である。
私が「家の前面」を見ているとき、私はそれを「家の前面」であると確信している。
どうして確信できるかというと、私がとことこ歩いて家の横に回り込むと「家の側面」があり、さらに回りこむと「家の裏面」があり、はしごをかけると「家の屋根」が見え、床下にもぐりこめば「家の底」が見える・・・ということについてゆるがぬ確信をもっているからである。
「そこに行けば、そのようなものが見える」という確信あればこそ、私は「私が今見ているのは『家の前面』である」と判断できる。
この想像的に措定された「そこに行って、家を横やら裏から見ている私ならざる私」、それが「他我」である。
私が世界を前にして「私」として自己措定しうるのは、無数のこの「想像的な私」=他我たちとの共同作業が前提されているからである。
それゆえフッサールは「あらゆる主観性はそのつどつねに共同主観性である」と述べたのである。
さて、フッサールの他我論のかんどころはその次に来る。
この他我たちは現事実的に存在している必要はない。
他我はある種のヴァーチャルな機能にすぎない。
だから、仮に私以外の世界の全員がペストで死に絶えたとしても、「世界は存在する」という私の確信はゆるがない。
そのときに「おいおい、とうとう人類はおいら一人かよ。参ったなあ・・・」と私が独白した場合、そのことばは聞き手がひとりもいない世界で発語されているにもかかわらず、日本語の統辞法に基づき、日本語の音韻を用いて、「聞き手にちゃんと聞き届けられるように」語られる。
それ以外の語り方を私は知らないからである。
つまり、他我は現事実的に存在しなくても他我として機能し続けるのである。
レヴィナスがフッサールの他我論でとりわけ着目したのはこの点である。
レヴィナスが現象学を祖述するに際して、強く強調したのは「そこにもう/まだないもの」もまた志向的対象でありうるという目のくらむような洞見であった。
「そこにもう/まだないもの」によって私は「影響される」(affecter)。
「そこにもう/まだないもの」が自我の同一性を基礎づけ、「私」の語ることばを調律し、その統辞法や語彙や音韻を定めるということがありうる。
というか、「私」が存在するというのはそもそも「そういうこと」なのである。
「世界で最後の人間」となった私が、それでもなお現事実的には存在しない他我たちとの共同主観性の中でしか生きられないように、「そこにもう/まだないもの」とのかかわりの中においてのみ私は「私」なのである。
そのような「現事実的に存在しないにもかかわらず、存在する私にかかわりくるものもの」をレヴィナスは端的に「他者」と呼んだ。
「すでに/もう」という副詞が示すように、レヴィナスの「他者」は空間的に隔絶された実在者のことではなく、「時間的に隔絶された」という点をきわだった特徴とする。
フッサールは、人間は同時に家の前面と家の側面を認識することができないにもかかわらず、「見えていないもの」を「見えているもの」と同時に認識することなしには「見る」という行為がそもそも成り立たないことを指摘した。
フッサールの志向性は「同時に、違う場所にいる」ものをめざす。
レヴィナスの志向性は強いて言えば「違うときに、同じ場所にいるもの」をめざす。
私が「ここ」に到来するより先に「ここ」にいた人。
私が「ここ」から立ち去ったあとに「ここ」に来る人。
そのような時間的な「タイムラグ」によって構築される共同主観性のパートナーをレヴィナスは「他者」と呼んだのである(たぶん)。
だから、レヴィナスの「他者」を、空間的表象を用いて記述しようとするすべての試みは原理的に頓挫することになる。
他者は私とは違う時間の流れに属するのであり、「存在するとは別の仕方で」私の思念と感覚に絶えず「触れ」続ける。
それゆえ「他者とは死者である」と書き換えるときに、レヴィナスの他者論はそのなまなましい相貌をあらわにすると私は『他者と死者』に書いたのである。

「簡単に説明」するつもりで長々と書いてしまった。
現象学やら存在論やらに用事はないぞ、という方には面倒な話を聞かせてしまって申し訳ない。
しかし、もしレヴィナスの哲学が「生きる」というのは生物学的に生存しているということとは違うということ、「存在しない」ものは存在者に決定的に関与することを止めないということを強調しているのであるとしたら、これは生と死についての、まことに掬すべき賢者の言であると私は思うのである。
私は今このことばを愛する人を失って深い悲しみのうちにある人に宛てて書いている。
フッサールの他我論やハイデガーの存在論を読んで癒しや慰めを得る人がいるかどうか私は知らない(あまりいないような気がする)。
だが、レヴィナスの他者論から癒しや慰めを得ることのできる人は少なくない。
それはレヴィナスの他者論が本質的な点で「死者論」だからである。
そして、死者が「触れてくる」経験について考えるためになら、私たちは惜しみなく持てる人間的資源を捧げることができるのである。
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