死者からの贈り物

2005-05-27 vendredi

5月26日(木)
ゼミは「クローン」についての発表。
人間の「死」というのはどこで計量されるのか?
生物学的に死んでも、遺された人々の「心の中に生き続ける」人がいる。
一方に、生物学的には生きているけれど、その人の不在が誰にも「欠落」として感知されることのない人がいる。
はたして「生きている」のはどちらなのだろう?
その不在が痛切に感じられる死者は人間的な意味ではおそらく「生きている」のと変らない。
レヴィナスが「存在するのとは別の仕方で」という副詞で言おうとしたのは、そのような事況ではあるまいか。
「生命の重さ」を計量する度量衡がもしあるとしたら、それはどれだけ多くの人にとって、どれだけ痛切にその人の不在が「欠落」として感知されるか、その欲望を基準にしてしか量る手だてはない。
私はそう思う。

午後は合気道の授業と稽古。
「関係の絶対性」(懐かしい吉本隆明のワーディングだ)は武道におけるきわめて汎用性の高い知見である。
「関係」とは「相対性」のことである。
「相対性の絶対性」
なるほど。ほんとにそうだよな。
そんなこと急に言われてもみなさんは困るでしょうけど。
「ほんとにそうだよな」としか言いようがないのである。
武道とは「生き残るための技法」である。
でも「生きる」ということの語義を私たちはほんとうに理解しているのだろうか。

武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。常住死身となりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果たすべきなり。(『葉隠』)

「死身となりて居る」人間だけが「業務上の失敗がなく、与えられた責務を全うすること」ができる。
山本常朝はそう言っている。
「業務上」や「責務上」でかかわりをもつ人間たちに「越度なく、家職を仕果たす」というしかたでささやかな「贈り物」をするためには、「死身となりて居る」覚悟がいる。
それは逆から言えば、「死身」となった人間もまた私たちの世界に「贈り物」をすることができるということである。
死を鴻毛よりも軽んずることができるというのは、生きているときと同じような「贈り物」を死者もまた贈りうるという確信がなければありえないことである。
なんだか『ダカーポ』日記的じゃないことを書いてしまった。
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