赤澤くんの葬儀にゆく

2005-05-25 mercredi

5月25日(水)ガラス工芸家の赤澤清和くんの葬儀のために岡山へ。数百人の知友が集まった。みんなから愛されていた青年だったのである。喪主の牧子さんは私の教え子である。憔悴した彼女にかけることばもない。霊柩車の後を数十人の友人のライダーたちが轟音を挙げて追走していった。往復の新幹線の中で加藤典洋さんから送ってもらった『僕が批評家になったわけ』(岩波書店)を読む。「なぜ内田樹はずっと売れなかったのか」について私も知らない深い理由が解明してあったのでびっくり。そ、そうだったのか・・・帰宅後すぐ能のお稽古へ。今日は装束・面をつけてお稽古する。重い、暑い、暗い。よろよろ帰宅するが、今日が『文學界』の締め切り。天は私に休息を与えてくれる気がないらしい。(今日の『ダカーポ』日記)

初夏の日差しが照りつける赤澤清和くんの葬儀には彼のバイク仲間たちがバイクを連ねて参列していた。
受け付けの仕事も、葬儀場のキャパを超えるほどの弔問客たちの整列も、葬儀にいかにも「似つかわしくない」革ジャンにジーンズのライダーたちが仕切っていた。
かたどおりの読経のあと、焼香のあいだ斎場に流れていたのはキャロルや長淵剛やチェッカーズの曲だった。
赤澤君は深夜にバイクで走行中に、道路工事で片側通行止めになっているところで転倒した。
転倒しただけなら擦過傷か骨折くらいで済む。
彼の場合は不幸にもその先でアスファルトを切断する歯車が回転しており、大量の失血で、救急車で病院に運ばれたときにはもう心停止していた。
それでも一週間意識不明のまま生き続け、22日に亡くなった。
斎場を離れる霊柩車を数十台のバイクが激しいエキゾーストノイズを悲鳴のようにあげながらついていった。
どれも定型的な葬儀にはどう考えてもふさわしいたたずまいではなかったけれど、赤澤くんという人の個性を深く愛していた友人たちのまっすぐな弔意がこめられていたように私には思えた。
四年前に一度だけ(赤澤くんはその前にも一度、神戸女学院に牧子さんといっしょに結婚のご挨拶に来てくれたことがあったあったでしょと「不眠」のオガワくんに教えてもらった。そういえばそうだった。赤い野球帽をかぶってたな)会った赤澤くんは陽気で気づかいのゆきとどいた「悪童」だった。
彼の手ほどきで熱く溶けたガラスで二つグラスを作った。
「教え方」のすごくうまい人だった。
自分のスキルと美意識と、その汎用性について、深い確信をもっている青年に会うというのは希有のことだ。
私の本を読んでいてくれて、「先生のことをいつも気にかけていたので、送りにきてください」と電話口で泣きながら牧子さんが言った。
牧子さんは私のゼミ生の中で、私が「読書」で負けた唯一の学生である。
破格な読書家であった牧子さんは、最初のフランス語学研修のとき滞仏中に読む本がなくなって、私のところに「何か本はありませんか」と本を借りに来た。
読み終えたばかりの『ニューロマンサー』を貸してあげたら、翌日返してくれた。
「つまらなかったの?」と訊いたら、きょとんとしている。
300頁くらいの本を一夜で読んでしまったのである。
「一晩で読んだの?」とびっくりして訊いたら、その質問にびっくりしていた。
彼女の読書ペースとは「そういうもの」だったらしい。
「不眠日記」の小川さんやベルギーのカナ姫たちとブザンソンで二週間過ごしたあと、いっしょにイタリア旅行をした。
ベネチアの海岸で『ベニスに死す』の場面を真似て、いつまでも笑い続けていたことを今でも思い出す。
大学院に進んで文学研究者になるのかと思っていたら、卒業と同時に高校のクラスメートだった赤澤くんと結婚して(これも事実誤認で「中学のクラスメート」だったそうである。謹んで訂正いたします)、すぐに母親になってしまった。
あれほど怜悧な女性が22歳で主婦になりたくなるような気にさせる若者というのはどんな人なんだろうとずっと興味があった。
会ってみて「なるほど」と思った。
これなら結婚しちゃうよな。
告別式の挨拶をした山口松太さんが、赤澤君を「ジェームス・ディーンみたいな人」だったと形容していた。
「神々の愛でにし人は夭逝す」
もう一度、赤澤清和くんの魂の天上での平安を祈りたい。
遺された牧子さんと、ふたりのお嬢さんにも神の豊かな慰めと癒しがありますように。

加藤典洋さんから送られてきた『僕が批評家になったわけ』は岩波書店から出る「ことばのために」というシリーズの一冊である。
他の執筆者は荒川洋治、関川夏央、高橋源一郎、平田オリザ。
加藤さんの本は「批評とは何か」という根源的な問題を扱っている(すごく面白い。とくにいきなり柄谷行人が「なんぼのもんじゃい」という話から入るところがスリリング)。
その中で私のことも論じられている。
それは私が「売れなかった」ということの理由についての考察である。
「どき」っとしたので、その部分を再録してみる。

「内田は、現在五十代半ばだが、ほんの四年前まではフランス現代哲学の担い手の一人であるエマニュエル・レヴィナスの翻訳によって関心のある人々に、僅かに知られる―知る人ぞ知る、というでもない―書き手だった。」

「知る人ぞ知る、というでもない」というところが「ぐさっ」と来ますね。
で、その先は

「なぜ突然こういう書き手が現れたのか。いや、こう問うのは愚かしい。こういいかえないとけない。なぜ、これだけの力量をもつ書き手が、五十歳にいたるまで翻訳書のほかには数冊の共著を出すだけの仕事しか行わない、寡黙で怠惰な(?)書き手だったのかと。」

力量云々はともかく、なぜこれほど寡黙で怠惰な書き手だったのか(これは事実である)について、加藤さんはたいへんに深い考察をしている。
読んで私も驚いた。
そうだったのか。
そうだったのかもしれない(と私も読んで納得してしまった。加藤さんが分析してくれた「その理由」を知りたい人は本を買ってね)。
でも、一番大きな「怠惰」の理由は「子育てに忙しかった」からじゃないかと思うんですけど、加藤さん…
というわけだから、当然このあとは「その内田が2005年を境にまたぴたりと執筆を止めて、寡黙で怠惰な書き手にもどった」ことも批評史的には問題にされなければならないはずであるが(別にならないけど)、理由は「教務部長の仕事が忙しかったから」なんですね、これが。
「子育て」や「学務多繁」で平気で「批評」を止めちゃうような人間なんです、ウチダは。
そして、もし私の言説に多少なりとも批評性があるとしたら、それは「学務多繁を理由に平気でメディアへの執筆をやめちゃうような人間である」という「態度の悪さ」によって担保されているような気がするのであります。
加藤さんは現にその少し前で戦時中の言論人のふるまいを論じて、こう書いておられる。

「多くの言論人が (…) 書くことから離れられずにずるずると自分の考えを拡散させていったことを考えると、時には、書かないこと、書く代りに生計を立てる道として、ほかの手段を選ぶこと、煙草屋になること、商売人になること、サラリーマンになることが、このような日本の伝統のもとでは、批評的な行為となりうることがわかる。」

さすが、加藤典洋。
ものごとの本質をよく見ておられる。
私は前に「プロの物書き」と自称する方からの批判に答えて「私は『プロの物書き』ではない」と申し上げたことがある。
私は「アマチュアの物書き」である。
批評性というのは「批評」が知的商品として市場価値を持つ場所においてしか成り立たないものではないと私は思う。
そのような場の成り立ちかたそのものを問う批評性を確保しようとするなら、人は批評以外の「たずきの道」を確保しておかなくてはならない。
私はそれはそれで、ある種の人間にとってはけっこう大切なことではないかと思う。
私は「アマチュアの物書き」であり、「アマチュアの学者」であり、「アマチュアの武道家」であり「アマチュアのビジネスマン」である。
どの領域でも「プロ」というほどにコミットしていないので、あちこちのエリアで小銭を稼ぐというかたちでリスクヘッジしている。
もちろん、そういうスタイルに汎通性があるとは思っていない。
だから、「みなさんもそうしなさい」というようなことは申し上げない。
でも、私自身は「そういうスタイル」じゃないと落ち着かないのである。
それはいわば私の「せこさ」である。
そして、この「せこい」状態に安心しているとき、私の毒舌はたいへんなめらかに機能するのである。
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