忙しい週末

2005-05-22 dimanche

ブランドのことを書いたら、数学者の娘であるところの “ほんとはいいやつ” ミヤタケ(それにしてもこの先輩後輩は「まくらことば」が一緒だなあ)から訂正のメールが届いた。
世界人口2%の日本に全世界のヴィトンのバッグの50%があるということは、残る98%の地域に散在する同数のバッグと出会う49倍の確率で本邦ではヴィトンとの遭遇がなされるのではないかというたいへんに論理的なご指摘である。
私がどうして25倍と書いたかというと、世界にヴィトンのバッグが均質にばらけている状態(ありえない状態だが)を想定したからである。
その場合、日本における「ヴィトン配給」は人口比どおりの2%だが、実際には50%がここに集中している。
だから「あえりえない標準状態の25倍」という数値をはじきだしたのである。
私が「数学が受験科目に含まれる試験を二度通過した」ことを「奇蹟」であると以前記したことがあるが、読者諸氏は「まことに奇蹟であるなあ」との感を深くされたであろう。
「配給」とか「米穀手帖」というようなトラウマ的体験が私の計算方法にもたらした無意識的影響も排除できないが。

朝日新聞の書評欄に『インターネット持仏堂』の書評がでるというご通知を “魔性の女” フジモトくんから頂いたので、出先の神田学士会館で朝ご飯をたべたあとロビーで朝日新聞を拡げる。
おお、またまた宮崎哲弥さんではないか。
『諸君!』で絶賛しただけでは足らず、朝日新聞書評欄でも絶賛だ(この両誌で同時に評価される書籍というのも、けっこう珍しいのではないか?)。
朝日の書評委員会には高橋源一郎さん、鷲田清一先生、小池昌代さんらがおられるので、その中のどなたかであろうと思っていたので、宮崎さんとは意外。
というのも、『ため倫』で私は宮崎さんの本を論評して「あまりおもしろくない」と書いたことがあるからである。
そのころは、私のHPのアクセス数は一日150くらいだったので、誰が読んでいるかほとんど固有名までわかっていた。
だから、身内相手に居酒屋のカウンターで話すような口調でもう言いたい放題有名人の悪口を書いていたのである。
この「ここだけの話」的悪口雑言をそのまま『ため倫』に転載してしまったのであるが、それは「書かれた当人は決してこんな本は読むまい」と気楽に構えていたからである。
天網恢々疎にして漏らさず。
高橋哲哉も上野千鶴子も宮崎哲弥も、みんな私のレビューを読んで「むかっ」と来ていたのである。
ご本人がたが私の本など買って読むはずもないから、誰かたまたま読んだやつが「ご注進、ご注進。このウチダってどサンピンが先生の悪口書いてまっせ。まったく身の程知らずのふてえ野郎だ。どうです、いちど行儀っつうものを教えてやっちゃあ」というような愉快な展開を期待されたのであろう。
よけいなことをする人間がいるものである。
おかげで私はただでさえ狭い世間をさらに狭くして、ドブ板の上をはいずるように生きなくてはならなくなった。
ま、こんなところで5年も前の筆の滑りのいまさら言い訳しても始まらない。
とにかくウチダの「居酒屋カウンター的酔漢書評」に報ずるに、宮崎哲弥さんがきわめてジェントルかつ行き届いた書評を以てしたことを見れば、人間の「格」の違いというものがおのずと知れるということを申し上げたかったのである。
こんなことなら先日新幹線でお会いしたときに名刺を渡して前非を悔いておけばよかった。

昨日から東京に来ている。
学士会館泊まり。
朝一で『AERA』のI川記者が遊びに来る(取材なのかもしれないけれど、なんとなく「遊びに来た」という感じ)。
お題は「40代の過ごし方」。
でも、一般的な「40代」などというものは存在しない。
私の40代と、当今の40代では、年齢はいっしょだが、状況的与件が違う。
ぜんぜん違う。
だから、「おいらは40代のとき、こう過ごしたよ」というような手柄話は何の役にも立たない。
ということで、現在40代のみなさま(1956年から65年の間に生まれたみなさま)はどのような歴史的文脈の中に生まれ育たれ、どのような状況に投じられており、どのような問題に直面されているのか、ということをお話しする。
この世代の特徴は「デタッチメント」志向である。
めんどうな浮き世のしがらみや親族の葛藤や師弟だの親の血を引く兄弟よりもの義兄弟だのストリート・ファイトで苦楽をともにした同志だのいうややこしい人間関係を「好まれない」という点を世代的な徴候としている。
彼らがそのようなものを「好まれない」のは先行世代(私たちのことだ)がそういう「ややこしい人間関係」が大好きな「コミットメント世代」だったからである。
そんなことはあるまい、君たちだって親族や地域社会のつながりを断ち切ることにはずいぶん熱心だったのではないかね、というご批判の声もあるだろう。
おっしゃる通りである。
だが、それは「親族や地域社会や国民国家」のようなべたべたしたものを「超克」することが優先的な世代的課題として「過剰に意識されていた」からなのである。
「コミットメント」というのは「のめりこむ」ということであって「のめりこみ」には、「好きで好きでたまらないから」という場合と、「あまりに気に障るので絶えず問題にする」という場合がある。
40代のみなさんは、そのような「コミットメント」世代に「うんざり」するというかたちで人格形成を遂げられた。
そういうものである。
あらゆる世代は先行世代の「前者の轍を踏まない」というかたちで走路を選択する。
そのせいで、いまの40代のみなさんは、「ややこしい人間関係に過剰にコミットしない」ということを世代的党是とされて今日の日をお迎えになったのである。
それは言い換えると「オレのことはほうっておいてほしい」「好きにやらせてくれ」「所属組織に対するなまじな忠誠心のようなものを期待しないでくれ」「私生活に干渉しないでくれ」「他人がどうなろうと、オレの知ったことではない」的なクールでニヒルな方々がこの世代には相対的に多いということを意味している。
別にそれはそれでよろしいのだが、彼らはやはり日本が国民国家として安定期にはいった時代にお育ちになったので、「かなり効果的法治されている」ことや「通貨が安定していること」や「言論の自由が保障されていること」などを「自明の与件」とされていて、それを「ありがたい」(文字通りに「存在する可能性が低い」)と思う習慣がない。
そのような与件そのものを維持するためには「水面下の、無償のサービス」(村上春樹さんのいうところの「雪かき仕事」)がなくてはすまされない、ということについてあまりご配慮いただけない。
だから、この世代の特徴は、社会問題を論じるときに「悪いのは誰だ?」という他責的構文で語ることをつねとされていて、「この社会問題に関して、私が引き受けるべき責任は何であろう?」というふうに自省されることが少ないということである。
もちろん、このような自責的反省をする方はどの世代においても決して多くはないので、40代だけを責めるのは不公平であるが、それでも世代的に突出しているという印象は否めない。
これはちょうどいま学齢期の子どもの親御さんたちの世代なのであるが、この方々が「学校に怒鳴り込んでくる」比率は先行世代の比ではないということを各級の学校の先生からお聞きしている。
子どもが階段ですべってころんだというときに、「足下の危ないところでは慎重に行動するように」と子どもに説き聞かせるよりさきに、学校に「どうしてすべる可能性のある階段を放置したのか」と管理責任を問うようなことをされるのである。
「危険な場所では慎重に行動しなさい」というのは汎用性の高い教えであるが、「何かあったら管理責任者に文句をつけろ」というのはそれほどには汎用性のない教えである。
アマゾン川下りの最中に船底の穴から水が漏れてボートが沈没して、ピラニアにばりばり囓られているときに「貸しボート屋の管理責任を断固追求するぞ! 弁護士を呼べ!」と言っても、あまり事態は好転しない。
それよりは事前にボートの船底に穴がないかどうかていねいにチェックする習慣を身につけている人の方が生き延びるチャンスは高い。
他責的なトラブル・シューティング方法に熟達するよりは、トラブルを事前に回避する心身の能力の開発に優先的に教育投資を行う方が合理的であると私は考えるが、そう考える人は、この世代には比較的少ないようである。
というような話をする(してないけど)。
東京に来ているのは日本記号学会というところで大学についてのシンポジウムが開かれて、そこでパネリストとしてなにごとか申し上げるためである。
大学における真の教育資源は「隠されたカリキュラム」であるという話にしようかなと考えているが、まあ出たとこ勝負である。
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