「ムラ」的経営者の末路

2005-05-21 samedi

開校してわずか二年目の法科大学院の志願者が前年比4割減、定員割れとなった大学院も74校中45校(昨年は14校)となった。
私立は49校中の36校(73%)が定員割れ。
多少とでも思考力がある人間であれば、法科大学院の早期の破綻は高い確率で予測されていたことである。
去年の秋に私はこの日記にこう書いた。

「朝刊を開いたら、『法科大学院志願が激減』という見出しが一面トップだった。
あら、やっぱり。
全国で68もの法科大学院はどう考えても法曹市場の需要に対応していない。
遠からずその過半は市場から撤退することを余儀なくされることは自明であると私は考えていた。
しかし、『遠からずその過半が市場から撤退することを余儀なくされること』が自明であるにもかかわらず、日本中の法学部をもつ大学のほとんどがかなりの設備投資をし、法律専門家のリクルートに巨額の人件費投資を行った。
理不尽なようだが、主観的な理由づけはたいへん簡単である。
『ほかがやっているのに、うちだけやらないわけにはゆかない』からである。
このわが国固有の『村的』メンタリティを日本の法律関係者もまた豊かに共有されていたということである。(中略)
法曹にはさまざまな知的資質が期待されているが、そのうちの一つは『社会の変化の趨勢を見通す力』である。
めまぐるしく変化する社会情勢に適切に法条文を解釈適用するためには、歴史的趨勢を見通す能力は不可欠である。
この程度に自明な未来予測に失敗したという事実からして、日本の法科大学院設立者たちに、はたして法曹を育成するだけの知的資質が十分に備わっていたのかどうか、私はいささか危ぶむのである。」

ことは法科大学院に限らない。
他の教育研究領域でも、「ほかがやっているうちから…」というだけの理由で「流行」をフォローすることを「時代のトレンドにキャッチアップする賢明な戦略」だと思っている大学人は少なくない。
個人的にそのような試みをされることは教員自身の自由に属し、余人が容喙すべきことではない。
彼の教育プログラムの失敗は「すべりましたね」という笑いをもって受け容れられるであろう。
だが、組織的に「ほかがやってるから…」戦術に取り組み、巨額の設備投資や新規人事を起こした場合はそれほど牧歌的にはゆかない。
こういう場合には、「うまくゆかないみたいだから、やめましょう」ということができないからである。
「やめる」場合は誰かがその責任をとらなければならないが、「続ける」限り誰も責任を取らなくていい。
そういうものなのである。
そもそも「ほかがやってるから」的な「ムラ」的メンタリティで動き出した「ヴィラジョワな」人々であるからして、「私が責任をとって腹を切る」というようなことを言い出す人間はいない。
不良債権と同じである。
銀行の不良債権がどうしてあそこまで悪化したのか、その心理的な仕組みはわりと簡単である。
一度始めた融資の効果がはかばかしくないときに、それを中止して資金を引き揚げるためには、最初の決定が「間違っていたこと」を認めなければならない。
しかし、多くの銀行家はそれを拒んだ。
彼らは次のようなロジックに頼った。
融資の決定そのものは正しかった。だが、「予測不能の」ファクターが「正しい決定」の「それにふさわしいアウトカム」の到来を妨害した。
悪いのは「私」ではなく、「外部」から到来した「ファクター」の方なのである。
だが、この責任転嫁によってことが解決するわけではない。
むしろ事態はさらに悪化する。
というのは、「予測不能のファクター」の関与によって融資が失敗したという事実は、別の「予測不能のファクター」の関与によって融資が実を結ぶという未来予測をすることを妨げないからである。
「まさか…」と思っているうちに「外的要因」によって地価が暴落し、バブルが崩壊したということは、「まさか…」と思っているうちに「外的要因」によって(例えば、日本の平地面積の半分が水面上昇で水没して)地価が高騰し、(例えば、富士山樹海から石油が噴出して)バブルが甦る可能性を排除しない。
だから、融資を「やめる」には個人の決断と責任が必要だが、融資を「続ける」ことは何の決断も誰の責任も要請しないのである。
日本の銀行の「ほとんど」はそうやって回収の見込みのない企業にドブに金を棄てるように延々と追い貸しを続け、次々と破綻していった。
問題は銀行家の融資先の事業内容を吟味する査定能力にあったのではない。
おのれの経営判断の間違いを、市場に指摘されるより先に気づき、いちはやく「撤収」を宣言する先見性こそが経営者の最大の能力であるとみなす習慣が日本にないことにあったのである。
「私が間違っていました」という宣言を彼の「愚鈍さ」の表明ではなく、むしろ「知性」のあかしであるとみなす習慣が日本にないことにあったのである。
誰よりも先に、そのようなしかたで「知性」を示すことのできる人間こそがすぐれた経営者である、私はそう思う。
だから、今回定員割れを起こした「ロースクール」の経営責任者たちのうちに、その語の厳密な意味での「経営能力」のある人間はひとりもいなかったようである。
これが「ビジネススクール」でなくてほんとうによかったと…冷や汗をぬぐっている大学人もたくさんおられるだろう。
よかったですね。
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