忙中閑あり

2005-05-21 samedi

たいへんハードな一日。
朝一で、大学のメールマガジンのための取材を受ける。
大学案内の取り寄せや受験についての問い合わせをしてきた高校生にMMを配信して、大学を知ってもらおうという入試センターの企画である。
志願者増に資することなら、どのような仕事も厭わぬウチダであるので、喜んで取材をお受けする。
取材に来られたライターの方は私がどんなことをしている人間かぜんぜん知らない人だったので、「ご専門は何ですか?」という開口一番の質問からいきなり窮地に追い込まれる。
専門って…何だろう?
いちばん最近出した本は「親子論」であり、その前は「浄土真宗の入門書」であり、その前は「学校教育論」であり、その前はジジェクのラカン=ヒッチコックの翻訳で、その前はブランショ論で、その前は「死とコミュニケーションの本」で、その前は「レヴィナスとラカン」、その前は…もう記憶の彼方である。
去年の後期はアメリカ論とユダヤ文化論を教え、今年の前期は中国論と合気道とフランス語を教えている。後期は杖道と宗教論を教える。
いったい何が専門なのであろう。
このあと音楽学部で声楽家と声の話をし、医学部で死者とのコミュニケーションの話をし、日本記号学会で大学教育の話をし、日本体育学会で武道の話をする。
「フランス文学者です」という名乗りに納得する方はあまりおられないであろう。
それでも必死になって「これらすべての学術的活動は帰する所ひとつなのであります」と力説する。
愉快そうに笑って聞いてくださったから、たぶん「帰する所」の目当てがついたのであろう。
どんな記事になるか楽しみである。

基礎ゼミは「ヨーロッパ・ブランド論」。
ブランド論といっても、古典的なボードリヤールの象徴価値論を知っている学生はもうこのあたりにはいない。
というわけで面倒でもいちおうそこから説き起こす。
ブランドとは(使用価値でも交換価値でもなく)、それを持つことが所有者の社会的位階の指標となるような記号的示差性(象徴価値)を主たる価値とする商品のことである。
このボードリヤールのブランド論が80年代からの「定説」である。
だが、私はこの「定説」はフランスや欧米の国々には妥当するけれど、日本にはそれほどうまく適用できないだろうと考えている。
その理由を述べる。
フランスはブルデューの言うとおり「階層社会」である。
階層差は明示的にはおもに文化資本の差によって示される。
文化資本については前に長々書いたので繰り返さないが、要するに「お育ち」がともなうもろもろの資質(「なんでも鑑賞眼」とか「審美的趣味」とか「ワインのよしあし判定能力」とかだらけていても則をはずさないテーブルマナーとか品のいい酔っぱらい方とか…)のことである。
これを後天的な学習によって体得することはむずかしい。
知識やスキルの「コンテンツ」は努力すれば容易に学習できるのであるが、知識やスキルを表現する「マナー」は学習することが困難だからである(それゆえ、『マイ・フェア・レディ』が「おとぎ話」になりえたのである)。
ブランドの適切な選択と装着をなしうる能力はヨーロッパにおいてはきわだって有徴的な文化資本の一つである。
それゆえそれは階層差を表示する記号として機能しうる。
それに違反すること(下層階層の人間が背伸びしてブランド品を身につけること)は彼の地では学歴詐称に類する「ルール違反」とみなされる。
しかし、本邦においてブランド品にそのような強い差別化機能はない。
ブランド品を所持する日本人の主たる目的は「所属階層」や「文化資本」というようなハードな「属性」を示すことではなく、「流行感度」のようなソフトであいまいな「個性」を示すことにある。
わが国では、ロレックスをはめていても、エルメスのバッグをもっていても、アルマーニのスーツを着ていても、それは「一時的に可処分所得が潤沢なので、『おしゃれ』に気を使う程度の余裕がある」という以上の社会的記号としては機能しない。
出身階層の別やそれ以外の(芸術的感性とか文学的素養とかの)文化資本の多寡をブランド所有が示すことはない。
ぜんぜん、ない。
むしろ、上記三ブランドを揃えてにぎにぎしく着用している人間などは「お育ちの悪い」集団にカウントされるリスクを負っている。
だから、「ブランド」という語の語源的意味に即していえば、日本では「ブランド品」はほとんど「ブランド」として機能していないのである。
ルイ・ヴィトンのバッグの50%は日本市場で買われている。
日本は世界人口の2%である。
つまり(意味のない平均だが)日本では、世界のそれ以外の地域で「ルイ・ヴィトン所持者」に出合う25倍の確率でヴィトン所持者に行き会うことになる。
それだけ考えても、ボードリヤールの分析が日本には適用するのがむずかしいことは知れるであろう。
私は文化資本の差が記号的につよく意識される社会よりも、ジャージ着て健康サンダルをはいたおばさんがヴィトンのバッグをもってローソンに「おでん」を買いに行くことが許される社会の方が個人的には「好き」である。
ちなみに私は本日アルマーニを着用している。
だが、これは「ジャージ=おでん」ヴィトンとだいたい同じような社会的意味しか持っておらず、それを私の所属階層の高さや文化資本の潤沢さの記号として解釈するような学生諸君はどこにもおられない。
日本はそういう点では「ほんとに気楽でいい国」であると私は思う。

午後は1時から7時まで会議。
学長が午後3時まで不在であったため、二つの会議で学長代理で議長をつとめる。
人間科学部のN田先生の「研究科委員会17分」という前人未踏の記録を更新しようと必死になったが、残念ながら惜しいところで(誰のせい、とはいわぬが)記録更新はならず。それでも学務委員会と教授会の間に70分の「休憩時間」が取れたことは我輩の欣快とするところである。
人生は会議のために費やすにはあまりに短い。
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