ウチダ、狂躁する。

2005-05-19 jeudi

つねづね申し上げていることであるが、私はプロスポーツというものにあまり(ほとんど)関心のない人間である。
そんなスポーツ・ディスオリエンテッドな私の唯一の例外はラグビーである。
ラグビーだけはとっても好きなのである。
毎年冬の日曜の午後になると、こたつに入ってミカンの皮を剥きながらNHKのラグビー中継をほっこりと眺めるのが私の30年来の趣味であった。
ラグビーのいいところは、私のまわりに誰も話し相手がいないので(唯一の例外は山本画伯の個展のあとにお会いする楠山夫妻と尾中選手だけで、それも年に一度のことである)誰ともラグビーの話をしないですむ、という点がたいへんにすがすがしい。
早稲田の藤原優選手と明治の松尾雄治選手が国立で早明戦を闘い、同志社の平尾誠二選手がすこーんと「うまれてはじめての」ドロップゴールを蹴りこんだころからの長い長いラグビー観戦人生ではあるが、そのことについては誰とも語り合ったことがない。私は静かなるラグビー・ウォッチャーとして早稲田と神鋼に個人的に深い愛情を寄せてきた。
20年ほど前、私が早稲田の社研の(ユダヤ研究の)研究員にして頂いたときに、いちばんうれしかったのは、「これで早稲田ラグビーを応援できる大義名分ができた」ということであった。
だって、「身内」なんだもん。
芦屋に引っ越してきたときも、これで晴れて「ロコ」として神鋼ファンであることを公言できることが(公言しなかったけど)たいへんうれしかった。
しかし、そのようなひとりきりの内向きのラグビー人生にもいつかは終わりが来るものである。
神鋼の俊足ウィングの「あの」平尾剛史選手が『ため倫』以後のウチダ本の愛読者であることが熱烈ラグビーファンである『ミーツ』の青山副編集長の「告げ口」によって私の知るところとなり、「リーダー・フレンドリー」を口実に私はどきどきしながら平尾選手にご挨拶メールを出したのである(もちろん平尾選手は丁重なご返事を下さった)。
そして、ついに青山さん仕切りによって、ダンジリアス江編集長、哲学するソムリエ橘さんとともに、「あの」神鋼の増保輝則監督(早稲田・神鋼そしてジャパンの輝ける11番)と平尾選手を元町「愛園」にお迎えすることになったのである。
ウチダの感激がいかばかりのものであったかは贅言を要すまい。
考えてみたら、私自身が「ファン」であったところの天上的にセレブな方々(甲野善紀先生、田口ランディさん、高橋源一郎さん、加藤典洋さん、養老孟司先生、橋本治さん、鷲田清一先生、K-1の武藏選手)にぱたぱたとお会いできるようなはずみがついたのはすべてこの4年ほどのことであり、もとをただせば『ため倫』のようなトンデモ本をなけなしの(余計なお世話だが)私費を投じて出版してくれた冬弓舎の内浦亨くんと内浦くんをわがHPに導いてくれた元ロック少年増田聡くんのおかげなのである。
まことに思えばありがたい限りであって、京都ならびに市川方面には終生足を向けて寝ることはできないのである(というわけでつねに足は西向きです、ベッドの)。
ともあれ、そのような宿縁のお導きによって、30年来ひっそりラグビーファンにとって「神」のようなお二方とおめもじすることができたのである。
おいおい、増保と平尾だぜ。
「大畑くん、最近調子はどうですか?」
なんてことを監督とチームメイトに聴けちゃうんだよ。
「今泉君は、最近どうしてますか?」なんて。
この感動をどのようにことばにしたらよろしいのであろう。

神鋼ラグビーのみなさんと

言い古された形容ではあるが、彼らはまことにまことに最高な「ナイスガイ」であった。
あれほどナイスな男たちを私は絶えて見たことがない。
江編集長から同夜のことについては長屋でわりかしクールにご報告頂いているけれど、私は(私にはほとんどありえないことなのであるが)あまりに「あがって」しまって、何を話したのか、何を話して頂いたのかさえ記憶がおぼろなのである。
愛園のあと、元ワールドの金村泰憲選手のやっているバー The Third Row に河岸を変えたころには私は完全に「はじけて」しまって、武道の身体技法をラグビーにどのように応用しうるのかというような思い出すだに恥ずかしい穴があったら入りたい的妄言を(世界の増保と世界の平尾を相手に)説教してしまったのである。
そればかりか図に乗って、うちの四回のゼミ生と神鋼スティーラーズ若手諸君との「合コン」の約束までとりつけてしまった。
私のその狂躁的状態をおふたりのラガーメンは静かで優しく知的な微笑をもって温かく受け容れて下さったのである。
なんて、いい人たちなんだ!
コベルコ・スティーラーズよ永遠なれ。
ウチダは生涯をかけてスティーラーズを応援し続けます、はい。
青山さん、ありがとね。このご恩は一生忘れません。
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