空文の効用

2005-05-16 lundi

「憲法論議」について二度書いたせいで、あちこちから憲法についてのコメントを求められる。
「憲法本」を作りたいので、平川君やぼくの「護憲論」も掲載したいという打診があった。
「護憲論」を元気よく語る人間というのがあまりいないらしい。
たしかに、いまさらながらの「左翼的護憲論」を掲げても、ほとんど説得力がないだろう。
それは私にもよくわかる。
伝統的な護憲論がぱっとしないのは、そこに戦略的な視点が欠けているからである。
憲法そのものはただの「文章」にすぎない。
それに国内政治、国際政治の戦略上実効的などのような「実質」を与えて「運用」するか、ということが憲法についてのプラクティカルな議論の中心的な論点となるべきだろう。
それについてまた少し書き足しておきたいことがある。
「平和憲法は世界に誇る日本の宝だ」という主張に対して、そんなものは「どこにでもある」という議論をする人がいる。
ご指摘のとおり、戦争放棄を定めた憲法を持つ国は世界にいくつもある。
日本国憲法に先立って、一七九一年のフランス憲法、一八九一年のブラジル憲法、一九一一年のポルトガル憲法、一九一七年のウルグアイ憲法が戦争放棄を掲げており、現在、何らかの平和条項を含む憲法を持つ国は百二十四カ国に達する。
壮観である。
しかし、不思議なのは、このような網羅的な憲法研究の結論が、「だから日本国憲法第九条は空文だ」というものに落ち着くことである。
世界中に平和憲法がこれだけあるのに、世界からは戦争がなくならない。
だから、平和憲法は空文である。
ここまでは推論として間違っていない。
しかし、「だから、平和憲法を戦争ができるように改訂すべきである」というのは推論として間違っている。
それは「空文」の「程度」(つまり、「どの程度無効なのか」)についての吟味の努力がここには欠落しているからである。
世界中に刑法がある国は数百ある。
しかし、それらの国では刑法の存在にもかかわらず、どこでも刑法に違反する犯罪が日常的に行われている。
なるほど、刑法は空文である。
しかし、だからといって、「刑法を廃止せよ」と主張する人はどの国にもおられない。
それは、「刑法が存在しない社会における犯罪発生件数」は「刑法が存在する社会における犯罪発生件数」よりも少ないということの論拠が提示されていないからである。
なによりも人々は刑法制定の意味は「100%の効果があること」ではなく、「1%でも犯罪発生件数を減らすこと」だからであるということを熟知しているからである。
ある法律が「空文である」という事実は、それが「存在すべきでない」という結論に論理的にはつながらない。
刑法の場合と同じく、これだけ多くの国が平和条項をかかげている「にもかかわらず」戦争がなくならないと嘆くよりも、これだけ多くの国が平和条項をかかげている「からこそ」世界における戦争発生数は「今程度」に収まっていると考える方が、前向きのもののように思われる。
第二次世界大戦以後もっとも多くの戦争を戦い、最も多くの外国人を殺しているのはアメリカ合衆国であるが、そのアメリカ合衆国憲法は平和条項を含まない。
もし、アメリカ合衆国憲法が「アメリカ合衆国国民は、正義と秩序を基調とする世界平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という条項を含んでいるというのであれば、私も諸賢の驥尾に付して「平和条項は空文であり、そのような欺瞞的な憲法と現実の乖離に引き裂かれたアメリカ国民においては『誠実』や『正直』といった道徳的価値は存立しえぬであろう」という判断に与することにやぶさかではない。
しかし、さいわいなことにアメリカ合衆国は独立宣言において、「長期にわたる抑圧と権利侵害によって人々を絶対的な独裁制の下におこうとする意図が明らかな場合は、そのような政府を廃棄して将来の安全のための新しい保護機関を樹立することは国民の権利であり、義務である」と堂々と謳っている。
この場合の「政府」には(その後のアメリカ合衆国の世界戦略を拝見する限りでは)、アメリカ以外の国の政府も含まれているようであるから、かの国の方々はおそらくは特段の自己欺瞞を感じることなく戦争をする権利を留保しておられると私は推察している。
憲法に含まれる平和条項が「空文」であるということを論証するために、戦争ばかりしている国の憲法に含まれる平和条項を傍証に引くとしたら、それは論理的なことである。
しかし、憲法に含まれる平和条項が「空文」であるということを論証するために、憲法制定以来一度も戦争をしたことのない国の憲法の平和条項を引くのはあまり論理的ではない。
というかぜんぜん論理的ではない。
憲法の平和条項の政治的意味は、「戦争を全廃すること」ではなく「戦争をできるだけ減らすこと」である。
私はそう考えている。おおかたの日本国民も私と同じように考えているであろう。
そうであれば、いま世界から戦争がなくなっていないことよりも、日本がとりあえず過去60年間戦争をしないできたことの方を平和条項の「政治的効用」として評価することの方がずっと常識的ではないかと考えるのである。
ご案内のとおり、1927年の不戦条約は第二次世界大戦の勃発を防ぐことができなかった。
しかし、そのあと日本国憲法はその「空文」を宣告された不戦条約の条項を再び掲げることによってとりあえず戦後60年間戦争をしないできた。
1868年の明治維新以来、敗戦の1945年まで、日本はほとんどのインターバルなしに外国に出兵してきた。1874年の台湾出兵、75年の江華島事件、94年の日清戦争、1900年の義和団事件、04年の日露戦争、14年の山東出兵、18年のシベリア出兵、31年の満州事変、37年の日中戦争、41年からの太平洋戦争。
これだけのべつ戦争をしてきた国が60年間ぱたりと戦争を止めてきている。
その間に日本は未曾有の経済成長を享受して、世界有数の経済大国になった。
その事実に日本国憲法の平和条項が「まったく関与しておらず、ただ有害無益な空文として日本の国益を損ない続けた」という仮説を論証するには、相応の論拠が必要だろう。
だが、私はそのようなものを提示した改憲論者に会ったことがない。
たしかに、さまざまな国際政治上の外因が関与して、「日本は戦争ができない」「日本には戦争をさせない」という「不自由」を「強いられた」というのは事実であろう。
そのような被制的な立ち位置が不愉快であるという気分を私は理解できる。
しかし、繰り返し言うように、その解釈から改憲の正当性を導出するためには、どの段階で憲法を改定して、軍事的フリーハンドを確保したら、我が国はそこからどのような利益を引き出し、どのような利益を損失せずに済んだのか、それを示す必要があるだろう。
その方の「オレは不愉快だ」という気分の問題と日本の戦後60年の平和をトレードオフすることがクレバーな取り引きだとする考えに私は与しない。
例えば、1950年に警察予備隊創設のときに、「憲法と現実の乖離」をきらって、「すっきりさせる」というオプションを取った場合に日本はどのような利益を得ることができたのか。
その場合、日本は朝鮮戦争やベトナム戦争や湾岸戦争に出兵することが「でき」て、多数の日本人兵士がそこで死傷することが「でき」て、いくつもの都市を破壊し、数千数万の現地国民を殺傷することが「でき」たであろう。
その場合に、日本は現在わが国が享受しているよりもどれほど多くの経済的繁栄とどれほど高い国際的威信とどれほど信頼に足る友好関係とどれほど潤沢な精神文化を享受しえたのか。
それについて十分に論拠のある推測が示されない限り、私は「憲法と現実の乖離による損失」や「国際社会で笑い者になった」というようなことをあたかも既決事実であるかのように語る人間の言うことをまじめに聞く気にはならない。
「逸失利益」の一つとしてしばしば挙げられるのは「理念と現実」の乖離が原因で、戦後の日本人が「惰弱になった」、「欺瞞的になった」、「アメリカ追随の腑抜け野郎になった」、「愚鈍になった」という申し分である。
だが、もし、その人の言い分が真実であるとするならば、そう語っているご本人もまた日本人である以上は「惰弱」で「欺瞞的」で「愚鈍」な「腑抜け野郎」であることになり、ふつうそのような人間の言うことに耳を傾ける人はあまりいない。
逆に、もしその人自身は「惰弱」(以下略)ではないとご本人が主張されるとしたら、ある種の日本人(彼および彼の言い分に理ありとするすべての日本人)は理念と現実の乖離からいかなる悪影響も受けてないというになる。
かつてフランスの反ユダヤ主義者エドゥアール・ドリュモンはフランスをユダヤ人が完全支配していることを当のフランス人が気づいていないことの理由として、「あらゆるメディアがユダヤ人に支配されているせいで、フランス人にはユダヤ人支配の実相を知る術がなかったからである」と書いたことがある。
そのドリュモン自身はユダヤ人が社主である新聞社に長年勤務して、「ユダヤ人のメディア支配の実相を隠蔽する工作にそれと知らずに荷担」してきたのであった。
「私を騙せるくらいにユダヤ人のメディア支配は徹底しているのである」とドリュモンは書いた。
なるほど。
しかし、おのれの愚鈍さを論拠にしておのれの賢明さを証明しようとする戦略が賢明なものであるという判断を私はしない。
それと同じように、「欺瞞的な憲法をおしつけられたせいで、日本人はこんなにダメになった」ということを断固主張される方にお訊きしたいのは、なぜ自分ひとりはそうではないのか、あるいは彼の見解に同意する多くの人々が(彼の主張の正しさを理解できる程度に)賢明であり続けられたのか、その理由である。
それが示されない限り、「空文」である平和憲法が日本人の知性と徳性にもたらしたはずの致死的被害を「自明の前提」とすることはできないであろう。
平和憲法の世界戦略的意義について書くつもりで始めたのであるが、そこに届かないうちに書きすぎてしまった。
これについてはまたラリー・トーブさんの『霊的使命』の内容をご紹介をするときにでも。
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