会議と対談と「濃い」乗客

2005-05-15 dimanche

朝からゼミが一つ、そのあと1時から7時半まで会議が三つ。
ノンストップ6時間半会議というのは深い疲労をもたらすものである。
会議に出ると、世の中には三種類の人間がいるということがよくわかる。
「会議を早く終わらせるために発言する人間」と「会議を長引かせるために発言する人間」と「会議を早く終わらせるために何も発言しない人間」である。
第一種の人間と第三種の人間だけで委員会が構成されている場合(ごく希にそのような幸運に恵まれることがあるが)、会議は「あっ」という間に終わる。
たいへん爽快である。
しかし、第二種の人間は参会者を深い疲労と虚無感のうちに引きずり込むことになる。
彼らはそこでの議題について、とりあえずどういうソリューションを採択すべきかについて具体的な提言は行わない。
ただ、その議題についての「批評家的感想」を語るだけである。
具体的な提言は具体的であるがゆえに必ず反論に遭遇するが、「批評家的コメント」は何の具体性もないので、反論されることがない。
とはいえ、「御説の通りである」と拍手する人間もいない。
しかし、彼らはその理路に瑕疵のない、深遠なる洞察を語っているわけであるから、誰からも有意な反応が得られないことを素直には受け容れることができない。
彼らはその反応の悪さの理由をしばしば「自分の理説があまりに高邁深遠であるために、知的にチャレンジドな同僚にはご理解いただけていないのではないか」というふうに解釈する。
それゆえ、繰り返し発言の機会を求めては、同じことばを噛んで含めるように説き聞かせたりすることになり、参会者の疲労は致死的に深まるのである。
へろへろになって芦屋に戻る。
K島大の梁川くんが西洋史学会のために神戸に来られ、我が家に一泊されることになったので、久闊を叙すのである。
「江戸川」で鰻の白焼き、鯛のお造り、烏賊のお造りなどを頂きながら、生ビールをくいくいと飲む。
愚痴の一つも聞いてもらおうと思ったが、開口一番「私学の教師の愚痴など聞けません!」と一喝される。
文科省に毎年1億円ずつ補助金を削られ、年間研究費が15万円しか給付されない地方国立大学(じゃなくて独立行政法人だな)の教員の「生殺し」の苦しみを知らぬのですか(学会に一回出るとその旅費だけで年間研究費が使い切ってしまうんだから)。
聞いてびっくり。
なんとK島大では理系の教員でさえ年間研究費が10万円そこそこという方がおられるのだそうである。
「それでどうやって研究するの?」とお訊きする。
よそから研究費を調達してこいというのである。
それなりの研究であれば、科研でも企業からの産学連携も学内起業もいくらでも金を手に入れる方法はあるであろう。
それでやりなさい。
それができない研究者は要するに「社会的に存在理由のない研究者」だということである。
給料だけは払うから、研究費を取ってこれない学者はそのへんの隅っこでじっと息をひそめて定年の日を待ってなさい。
というのが地方国立大学の現況だそうである。
国立大学といえば、正直申し上げて「社会的に存在理由を挙証する責任がない」ことを奇貨として、レイドバックな日々を過ごされてきた研究者のみなさんがあまたおられたわけであるから、この天国から地獄への逆落とし的状況変化はまことにお気の毒とはいえ、自業自得と言えないこともない。
わが梁川君は乱世型の人士であるから、こういうはちゃめちゃな状況には強いらしく、人文系研究者としてはめずらしいフットワークのよさと人脈を活用して、いろいろと面白い研究的イベントを企画されているようである。
しかし、地方国立大学における財政的締め付けというのはわれわれ私学教員の想像を絶したものがある。
少なくとも私ども私学の教職員は「運命共同体」をかたちづくっており、連帯感とチームワークを期待することができる。
だが、毎年研究費が削減されてゆくというネガティヴな大気圧の下では、ほとんど同僚の口からパンを奪い取ってわが口に押し込むようなせつないサバイバルゲームを戦い抜かねばならない。
研究したけりゃ、金を持ってこいというタイトでシビアな条件下での文系教員の「肩身の狭さ」は想像するだに哀れである。
このような暴力的な再編プロセスをたどりつつある日本の大学はこのあとも知的センターとしての社会的機能を維持できるのであろうか。
私には何だか不可能なことのように思われる。
まったく理不尽な理由で呼びつけられたイワモトくんも参加して、梁川くんご持参の屋久島種子島の焼酎を賞味する宴会が一夜明けて、私は芦屋の合気道の稽古に顔を出すという梁川くんを残して、ひとり東京へ。
朝日カルチャーセンターでの名越先生との対談仕事である。
名越先生とは久しぶりのお目もじである。
さっそく控え室で談論風発そのままの勢いで会場に行き、2時間わいわいおしゃべりをする。
ふだん名越先生とおしゃべりするときとほとんど同じ調子で同じような話題について語っているのを聴衆のみなさまに有料で公開しようというはなはだ身勝手な企画である。
本日は上で書いた「会議話」をマクラに振ってから、コミュニケーションの問題を中心に二時間しゃべり続ける。
押せば引き、打てば響くたいへん心地よく、かつスリリングなやりとりでありました。
こんなに楽しいおしゃべりができて、その上お鳥目がいただけるとは、まことにありがたい渡世である。
名越先生と私を引き合わせてくれた当の甲野善紀先生が会場にお見えになっていたので、晶文社の安藤さん足立さん、新潮社の足立さん、角川の江澤さん、神戸女学院総文のご卒業生で名越先生の『キャラッ8』の協力者でもある森さんらとぞろぞろとお茶しにゆく。
ほんとうは角川のおごりでどどっと「舌がとろけるようなフカヒレ」を・・・という垂涎のオッファーもあったのであるが、今回は明日が山形で法事なので日帰りしなければならない。
泣く泣くみなさんと別れて、ひとり「天むす」と缶ビールをかかえて車中の人となる。
名越先生、またやりましょうね!
日帰りで二度新幹線に乗ることになったが、なぜか「濃い」乗客たちと乗り合わせることになった。
行きは後ろの方に宮崎哲弥、私のまん前が「ちゃんばらトリオ」の南方英二。帰りは私の斜め後ろに自民党の中山正暉。
宮崎さんには思わず名刺を渡してご挨拶(『ため倫』にひどいこと書いてごめんね)しそうになったが、先方は私の顔を知らないわけで、なるほど、こういう場合に顔が知られていないということは気楽でよろしい。
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