平川くんが「カフェ・ヒラカワ」で憲法について、ちょっと熱く語っていた。
よい文章である。
論理の筋目と、身体の正中線が合っている。
少し引用しよう。
「憲法記念日をはさんで、新聞、雑誌などで改正論議が盛んである。
『何はともあれ憲法について多くの人間が議論するのはいいことだ』なんてことをニュースキャスターが言っているが、寝ぼけたことを言ってくれるもんである。
俺たちが憲法を常に意識しなければならないということは、日本人と憲法との間に不幸な関係が生じていることを示している。
憲法なんて意識しなくても、国を愛し、同胞を助け、隣人を敬って生きてゆけるのがまっとうな社会である、いや、ほとんどの日本人は憲法を読んではいないし、また読む必要もないのである。その意味では憲法に無関心でいられた戦後の 55 年間はむしろ評価されてしかるべきことであると思う。
もし、憲法を熟読しなければならないとすれば、それは他の法律について述べてきたことと同じで、この日本という国の存在自体が憲法に抵触してしまうか、あるいはこの憲法の抜け道を探して自国の欲望を拡大しようとするかのどちらかの場合である。
憲法と、現実に整合性がないということを、今日の若者の倫理観の欠如や自信の喪失の原因であるかのごとき議論があるが、全く同意しかねる議論である。
だいいち、俺は若者に倫理観が欠如しているとも思わないし、自信を喪失することが、自信満々に自国を誇ることより悪いとも思わない。もし、日本人が自信を喪失しているとするならばその理由は憲法ではなく、もっと別のところにあると思う。そもそも、どこの国の憲法も、現実と完全に整合しているなんてことは原理的にありえないのである。現実としばしば不整合を起こすからこそ『原点』を憲法に記してあるのである。
俺は憲法9条に戦争の放棄が謳ってあるから、戦争や武力の行使に反対するのではない。国際紛争の解決手段として戦争という不条理を用いることが、それを用いないことよりも効果があるとは到底思えないという理由によって反対するのである。
憲法が米国の手によって書かれた(らしい)という理由によって俺は、憲法の価値を判断しようとは思わない。たとえ誰が書いたものでも、あるいは他国の真似をしたものであっても、その内容が日本という国の国民の思考の『原点』として認めうるものであり、多くの日本人がそれを受け入れたのであればそれでいいじゃないかと思う。
さらにいえば、俺にとって憲法は、俺の行動規範でもないし、国家への忠誠のイコンでもない。
およそ、憲法を自分の行動の指針として、生活している人間というものを俺は想像できない。それにも拘らず、憲法を変えたいと思っている人が多いと新聞やテレビが報じている。もし、この調査結果を信じるとして問いたいのだが、憲法を変えれば、かれらは自分や自分の国に誇りを持つことができるというのだろうか。自分が行動の規範としてもいないテキストが変更されたからといって変わってしまう『誇り』とは何を指しているのか。俺は憲法と日本人の心性を結びつけて考えるような議論につゆほどの真実があるとは思えない。もし、憲法のテキストと日本の現実のギャップがトラウマになるというのなら、『汝、殺すなかれ』 『色情を持って女を見たら、それは姦通したと同じことだ』というバイブルを片手に、武力の行使を厭わないキリスト教徒(アメリカ人)は皆、トラウマにのたうちまわらねばならない。現実はそうなっていない。」
全文引用したいが、できれば直接原典に当たって頂きたい。
私がフーコーから学んだいちばん重要な技法は、歴史について考えるときには、「なぜ今あるような出来事が生起し、それと違う出来事は起きなかったのか」という「起きなかった出来事」が排除された分岐の条件について想像をめぐらせることである。
平川くんはここで「規範的テクストと現実の不整合」によって「苦しむ人間」という「起きなかった出来事」を提示することによって、分岐点が「そこ」にはないことを証示してみせた。
「リアリスト」のいう「リアリティー」なるものはある種の事実の構造的な見落としを条件にしてしか前景化しない。
平川くんはフーコーと同じようにそのことを指摘している。
「リアリティー」というのは、たまたま選択された出来事であり、他方にはたまたま選択されなかったそれ以外の出来事がある。
それらの「排除された出来事」と照合してみてはじめて、「ある出来事」だけが現実となったことを決定づけた条件について知ることができる。
「現実は現実である」というのは単なる同語反復にすぎない(だが、多くの「リアリスト」は同語反復者である)。
「この現実はなぜ〈非現実〉ではなく〈現実〉なのか」を問うことのできる知性を私はその語の正しい意味でのリアリストだと思う。
平川くんの書いたことを読んで一つ思い出したことがあるので、書きとめておく。
日本国憲法は短期間にGHQの一セクションで起草されたという何人かの関係者の証言がある。
私もそれは事実であろうと思う。
しかし、そのときに「わずか一週間で書き上げられた」ということを「雑な仕事をした」と解釈する人がいたら、その人は致命的に想像力が足りないというべきだろう。
自分で「雑なテクスト」を書いたことのある人間なら誰でもわかることだが、「雑」の徴候はテクスト内部の「論理的不整合」として現れる。
必ず書いたことの始めと終わりで辻褄が合わなくなる。
だが、現行憲法についてはほとんど無数の批判が存在するが、「テクスト内部に論理的不整合がある」という批判を私は聞いたことがない。
このところの批判はほとんど例外なく「憲法と現実の辻褄が合わない」という言い方でなされる。
だが、何人かの「素人」が集まって前文から103条にいたる規範的条文を一週間で書き飛ばしたというのがほんとうなら、テクスト内部に論理的破綻がないというのはほとんどありえないことである。
どうして、きわめてありそうな「論理的にぐちゃぐちゃなので、恥ずかしくて人に見せられない憲法」という「出来事」は「現実」とならず、「論理的に整合的な憲法」が一週間で書き上げられたという「出来事」の方が「現実」となったのか?
私ならそう問いを立てる。
この問いに対する答えは誰でも一つしか思いつかない。
それは「すでに存在する憲法」をコピー&ペーストした、ということである。
日本国憲法がコピー&ペーストしたのは知られる限りではワイマール憲法とソ連憲法と不戦条約である(フランスの人権宣言、アメリカの独立宣言ほかのテクストはこれらに伏流しているから数え上げるには及ばない)。
これはフランス革命以来の世界政治史の経験がその論理を整えた1945年時点での憲法案の「模範解答」だからである。
開示済みの「模範解答」が手元にあったから「素人」にも書き写せたのである。
その意味で日本国憲法は「アメリカ軍が恣意的に押しつけた」ものという判断に私は与さない。
もちろん日本国憲法の中には憲法史的「模範解答」には含まれておらず、明らかに「アメリカ軍が恣意的に押しつけた条項」も含まれている。
日本国憲法中の条項で、それに類するテクストがアメリカ人たちが参照したはずの先行憲法の「どこにも」含まれていないものは一つしかない。
それは第一章「天皇」である。
もし「アメリカ軍に押しつけられた」という歴史的事実それ自体がテクストの価値を損なっているということを憲法改正の心理的動機に数えるのなら、「まず」改訂すべきは九条ではない(何度も言うとおり、九条は1927年の不戦条約の文言を「コピー&ペースト」したものであり、大日本帝国はいかなる軍事的強制にもよらずこの条約に調印していたからである)。
もし「押しつけ」を理由に廃絶すべき条項があるとすれば、何よりもそれは「第一条天皇」である。
だが、私は第一条を改訂せよ(そして「天皇制を廃止せよ」あるいは「天皇親政」に戻せ)と主張する「押しつけ憲法論者」に会ったことがない。
なぜ当然「現実」となってよいはずの「第一章改訂」が議論の主題にならず、当然「現実」となってよいはずの「憲法内部の論理的不整合批判」を語る声が聞えないのか?
それは「現実」と「非現実」の分岐点はどこにあるのかという問いが決して「いわゆるリアリスト」たちの思考の主題になることがないからである。
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(2005-05-11 11:10)