だから写真はやだって

2005-05-10 mardi

忙しい一日。
朝一で、ひさしぶりに下川先生のお稽古。
本番まで、あと申し合わせをいれて3回しか稽古の時間が取れない。
しかたがないので、家でくるくる舞囃子のお稽古をする。
向かいの大丸の社員食堂からときどき視線が突き刺さる。
そりゃそうだろう。
昼日中に初老の男が部屋でひとりで扇をひらひらさせながら踊り狂ってる(「巻絹」というのは巫女が憑依されてイタコ状態になる話である)んだから。
稽古が終わってぱたぱたと大学へ。
会議後、朝日新聞の撮影。
四月から始まった大学面で6月の3週間「紙上授業」というものをさせていただくのである。
取材はもう終わっていて、原稿もできているので、それを拝見する。
「危険な箇所」(実際にしゃべったのであるが、公器において公開されるとウチダの政治生命にかかわる文言)をあわてて削除し、実物より少し賢く見えるようにしゃべっていないことを加筆をする。
そのあと延々と撮影。
私は写真に撮られることが大嫌いなのであるが、この苦しみをまじめに取り合ってくれるメディアはほとんどない。
今回は三週間連続で紙面に出て毎週私の顔が朝日新聞関西版読者のみなさまのお目にとまるわけで、私にすればほとんど死活問題である。
できれば写真は「証明書写真」で済ませたいとお願いしたのであるが(これは実物とまるで似てないので、いくら公開されても少しも日常生活に支障を来たさない)、却下されたのである。
今回は神戸女学院大学の「日本一美しいキャンパス」を紙面で公開してくれるというので、泣く泣くシェークスピアガーデンやソールチャペルの前で恥ずかしいポーズをとる。
それにしても紙面の半分が写真というのは構成上均衡を失しているように思うのは私ひとりであろうか。
いつから日本のメディアは写真の伝える情報にそれほどの重要性を付与するようになったのであろう。
写真が伝える視覚情報はどの瞬間をどの角度から切り取るかで、その相貌を一変させる。
にもかかわらず、それは端的に客観的事実であるかのように提示される。
たとえば、私が昨日撮られた500枚に及ぶポートレートの中には「極悪非道な表情」のものも「温厚篤実の表情」のもの「賢者のごとき風貌」のものも「あっと驚く間抜け面」も含まれていたはずである。
その中のどれを選ぶかによって、そのあと私の文章を読者がどのような先入観をかけて読むか、そのフレームワークが決定される。
取材された人間には自分の文章を校正するチャンスがあるが、写真を選ぶチャンスはない。
発言については本人のオーサーシップを認めるが、それをどのようなフレームワークの中で提示するかはメディアが決定する、ということのようである。
なるほど。
もちろん、私は写真の報道的価値に異議を唱えているのではない。
逆である。
写真は単体で、それ自体がすでに「報道」であり、メッセージであり、固有の価値判断を下していることを強調したいのである。
そのメディア的な決定力を重視するからこそ、言語メッセージの発信者としては、写真がメッセージの解読の仕方にどのような影響を及ぼすのかに無自覚ではいられないと申し上げているのである。
今回、私が撮影に応じたのは、大学のパブリシティのために使えるメディアは全部使うという管理職としてのビジネスマインデッドな判断からである(しくしく)。
私のように街中で気楽に暮らしている人間にとって、不特定多数の人に顔を知られるとことにはほんとに百害あって一利とてないのであるから、メディア関係者のみなさんはその点をぜご勘案願いたい。
記者諸君にしたって、「インタビューのときにインタビュイーから撮られた顔写真をそのまま紙面に掲載すること」がメディアに義務づけられたら、「そればかりはご勘弁」と懇願されるであろう。
自分がされたくないことは人にもしない、というのが人倫の基本ではないであろうか。
でも、実際にはテレビに出たがる学者やポーズを決めたポートレートをばんばん露出させている学者もいるから(というか、そっちが圧倒的多数なんだけど)、結局、私の声はどこにも届かないのである。
--------