サラリーマンの研究

2005-05-07 samedi

連休最後の日(早いね終わるのが)は卒業生の「怒濤の愚痴大会」。
颱風グリーンカレーを食べたいというリクエストがあったので、朝からカレーを仕込み、シャンペンやワインを冷やし、お部屋の掃除をしてご来駕を待つ。
何人来るのか聞いてなかったのだが、来たのは4人。
みんなお忙しいのだね。
勤め始めてまだ一月なのに、もうすっかり「OLさん」になっている。
面白かったのが、一月勤めてみて世の「サラリーマン」というのものがいかによく働くか知って仰天したという驚きの報告であった。
佳話である。
そうなのだよ、諸君。
日本というシステムはあの方々の滅私奉公的オーバーアチーブによって支えられているのである。
あの給料で、よくあれだけ働きますね…とOL諸君は感動していた。
そうなのだよ。
諸君はこれまで気づずかずに来られたのであろうが、資本主義企業における「労働に対する対価としての賃金」はつねに労働が生み出した価値よりも(すごく)少ないのである。
当たり前だね。
株主に配当したり、設備投資したりするための原資は他ならぬ諸君の創り出した労働価値の「上前」をはねることでしか得られないからである。
「オレ」の稼ぎで「あいつら」を食わせている、と思っているサラリーマンはたくさんいる。
たくさんどころか「全員」と申し上げてもよい。
だからその方たちは家に帰っても、つい「誰の稼ぎで食っていると思っているんだ」という常套句を口にする衝動を抑制しきれない。
しかし、これは彼らの偽りなき本心であり、まさに「オレが〈あいつら〉を食わせている」という構文こそが資本主義社会における労働者の心性を端的に表しているのである。
「あいつら」というのは抽象的な概念である。
別に特定の誰かを指しているわけではない。
しかし、彼らはその状態を「停止せよ」とは言わない。
「〈あいつら〉がオレを食わせる」ような状態を望んでいるわけではない。
そうではなくて、「オレが〈あいつら〉を食わせている」ことを承認せよ、と迫っているだけなのである。
その承認さえ得られるならば、「オレ」はいつまでも〈あいつら〉に貪り食われるままになっていることを厭わない。
サラリーマン諸氏はそうおっしゃっているのである。
レヴィナス老師はかつて「自我」の基本構造を「享受する」という動詞で表現したことがある。
サラリーマンの基本心性はむしろこれを倒置した「享受される」に近いであろう。
しかし、この「不当に収奪されている」という実感が「自己を供物として捧げることで共同体を維持する」という太古的・呪術的な社会観に深いところで通底していることに気づいている人は少ない。
「自己を供物として捧げる」ということは、人間に深い感動をもたらす経験である。
おそらく「自己を他者への供物として捧げ、他者によって貪り食われる」という事況そのもののうちに強烈な快感を覚える能力を得たことによって人類は他の霊長類と分岐したのであろう。
そこが人間とサルの違いであり、違いはほとんど「そこだけ」にしかない。
だから、自己を供物として捧げることを拒む人間は定義において「人間」ではない。
マルクス主義が政治理論としては結局破綻したことの大きな理由のひとつは、「人間は収奪されることのうちに快楽を見いだすことができる」という危険な真理をどこかで見落としたことにある。
「能力に応じて働き、必要に応じて取る」共産主義社会は「人間的」な社会である。
なぜなら、そこではおそらく誰しもが「(能力が高く、必要の少ないこの)オレが(能力は低いが必要だけは多い)〈あいつら〉を食わせている」という実感を持つことができるからである。
だが、残念ながら、マルクスの理路によるならば、そこにたどりつく過程で労働者たちは「収奪された労働価値の奪還」という社会主義革命を経由しなければならない。
それは言い換えると「オレの稼ぎはオレだけが享受する。オレのものは誰にも渡さない」という言い分に理ありとすることである。
それは「人間的」な考え方ではない。
そう主張するものはもう「人間」ではない。
革命の大義のために「わが身を供物として捧げる」人々が一定数存在した間、社会主義革命は「人間的」なものでありえただろう。
だが、革命が「成就」し、指導者も人民も胸を張って「オレの稼ぎはオレだけが専一的に享受できる体制の到来」を言祝いだときに、革命は「人間的」であることを止めた。
人間の定義とは「わが身を捧げる」ものである。
人間は「すねを囓られる」という経験を通じてはじめて「自分にはスネがある」ことを確認し、「骨までしゃぶられる」という経験を通じてはじめて「自分には骨がある」ということを知るという逆転した仕方でしかアイデンティティを獲得することができない「生き物」である。
だからサラリーマンがその労働の対価として不当に安い給料で働くことは、それ自体が根源的なしかたで「人間的」なふるまいなのである。
その点では「キリストの受難」と「サラリーマンの受難」は構造的には同形のものであると申し上げてよいかと思う。
だから、新米OL諸君が、身を削って働く先輩サラリーマンを見て、ある種の「感動」を禁じ得なかったというのは、キリスト教教育を受けてきた諸君としてまことに「正しい」リアクションだったのである。
--------