師恩に報いるに愚問を以てす

2005-05-04 mercredi

静かな一日。
朝起きてメールをチェックすると、多田先生からメールが来ていた。
前日、今度の広島での講習会に杖・剣を持参すべきかどうか、学生たちから問い合わせが続いたので、それを確認するために先生にメールを差し上げたのである。

「メールで失礼いたします。
今週末の広島講習会ですが、杖剣は持参したほうがよろしいでしょうか?
これまでの広島講習会は体術だけでしたが、何人かの部員から問い合わせがあり、『要らない』と断言するのもはばかられて、お訊ねする次第です。
お忙しい中、お手数ですが、『持参せよ』か『持参せずともよろしい』かだけお知らせ頂ければ幸いです。」

という私のメールに多田先生は次のようなご返事を下さった。

「内田樹様
広島で杖、木刀の稽古を行った事は、旧広大の道場で一回だけあります。
今回は私も杖木刀を持ってゆこうと思っております。
『持参せよ』
多田  宏」

私はこのメールを読みながら、足ががたがた震えた。
多田先生が広島での講習会を始められたのは先生が20代の頃からのことと伺っている。
ということは、ほぼ半世紀のあいだに先生が広島で杖・剣を使った稽古をされたのは一度だけということである。
私が広島の講習会に参加するようになってからも多田先生が稽古で杖剣を使われたことは一度もない。
帰納法的な思考をする人であれば、ここは「確率的には『使わない』ので、持参するには及ぶまい」というふうに「合理的に」推論するだろう。
現に私もそのような「合理的思考」にいつのまにかなじんでいた。
多田先生は私にそのような「帰納法的推理」は「武道的思考」とは準位が異なるということをきびしく示唆してくださった。
私はそう解釈している。
だから、足が震えたのである。
私は土曜の合気道の稽古には使っても使わなくても基本的につねに杖剣を携行することにしている(木曜の大学での稽古は道場の天井が低いので杖剣を振ると私程度の術技では誤って蛍光灯をたたき割る可能性があり、そのときの「掃除の手間」と「学生が負傷するリスク」を考えて使用を自制している。恥ずかしい話だが)。
土曜の稽古に杖剣を持って行かなかったことも実は何度かある。
一度だけ、術理の説明のときに剣を振ろうとして剣を持ってこなかったことに気づいた。
そのときに、真剣勝負の場に「剣を忘れました」というエクスキュースは通らないだろうなと思った。
それからは携行することを忘れない。
多田先生はよく「道場は楽屋、実生活は本舞台」という喩えを語られる。
「楽屋」にあったものが「舞台」にはない、ということはしばしばあるだろう。
だが、「楽屋」には用意していなかったものが、さいわい「舞台」にはあった、ということは確率的にはほとんどありえない。
「楽屋」や「袖」には「舞台」で使わないかもしれないけれど、不意に必要になるかもしれないものを備えておくのが演劇者の基本的な心得だろう。
私は先のメールで「楽屋」に「持って行かなくてもいいもの」がありますか、と先生にお訊ねしたことになる。
多田先生は「『必要になる可能性のあるもの』は、それがどれほど低い確率であれ、『楽屋』には置いておくのが武道家のたしなみである」と諭された。
私が「どうせ使わないんだから、杖や剣を抱えて行くのは、めんどくさいなあ」という程度の日常的な判断から黙って手ぶらで稽古に行っても先生はおそらく咎められなかっただろうと思う。
咎める要もないからだ。
しかし、「必要ですか?」という問いには、先生は「『必要になるかもしれないもの』をそうであるとわかった上で持参しないということは武道家にはありえない」という平明な真理を以て答えて下さった。
「持参せよ」という「文脈上不要な」一文は私の気の緩みに対する叱正の一語である。
内田くんは何のために武道の稽古をしてきたのか?
それは「舞台」で遭遇しうるあらゆる可能性に対して処しうるような汎用性の高い心身統御の技法を学ぶためではなかったのか?
そのための実験実習の場である「楽屋」に進んで汎用性を減じるような条件を付して入ることを是とする武道家がいるだろうか?
そう改めて先生に訊かれたような気がして私は粛然と襟を正したのである。
多田先生がしてくださったお話の中にはいくつも印象深いものがある。
その中のひとつは、古武道大会の「控え室」での逸話である。
ある武術の演武者が臨席の見知らぬ演武者に「あなたの流派では、手をつかまれたときに、どのように応じるのですか?」と尋ねた。
訊かれた演武者はにこやかに片手を差し出して、「では、この手をつかんでごらんなさい」と言った。
問いを発した演武者は、その差し出された手の小指をつかんでぽきりと折った。
話はそれでおしまいである。
多田先生はこれについてただ一言「これは折られた方が悪い」とおっしゃった。
私はこの挿話の教訓についてずいぶん長い間考えた。
そして、私が暫定的に得た教訓は、「楽屋」を「武道的な原理が支配しない、常識的=日常的な空間」であると思いなす人間は武道家としての心得が足りないということであった。
「楽屋」はある意味で「舞台」以上にタイトな空間である。
道場で十分な気配りができない人間、道場に入るときになしうる限りの備えを怠る人間は、「本舞台」においても使いものにならない。
そのことは「理屈」ではわかっていた。
だから、その逸話をいくつかの書物で引用しておきがら、私は先生がおっしゃったことの意味を実践的には少しもわかってはいなかったのである。
そのような自明のことを三十年来門下にある知命を半ば過ぎた弟子にまた繰り返し告げなければならない師の胸中を察して、私は足が震えたのである。
知命を過ぎてなお叱正して下さる師がいるという身に余る幸運に足が震えたのである。
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