ラリー・トーブさんから本が届いた

2005-05-03 mardi

ウチダ的には連休の初日。
今日と明日が連休であり、五日は「怒濤の愚痴大会」に今年の卒業生諸君が乱入してくるので、彼女たちのためにリクエストの「颱風カレー」を作成することが要請されている。このあたりの「人づかわれの荒さ」は鈴木晶先生と深く通じるものがある。
とりあえず、今日と明日だけはひとり家でごろごろしていてよろしいのである。
ラリー・トーブさんから The Spiritual Imperative Sex, Age and the last Catse, Clear Glass Press, 2002 が届く。
さっそく開くと、表紙裏にトーブさんからの献辞が記してある。
「内田教授。本書をお送りできるのは私の欣快とするところであります。本書があなたの目的に役立つことを期待し、またあなたのフィードバックを期待しております。」
ご丁寧な方である。
さくさくと読み進む。
おおお、こ、これは摩訶不思議な書物だ。
「大きな物語」に知識人たちがオサラバしたのは今を去る20年ほど前、ジャン=フランソワ・リオタールが『ポストモダンの条件』で grand narrative の弔辞を読み上げた頃のこと。「ポストモダン」ということばにまだそれほど手垢がついていない時代のことである。
トーブさんはその一度は死亡を宣告された grand narrative にもう一度呼び出しをかけている。
「歴史はランダムであり無意味であり、未来は予測不能だというのは、やっぱり言い過ぎでしょう。(…) big-picture というのは、常識的な経験から考えても『あり』です。たしかに人間が生まれる前に、その人がその後の人生でどのような心身の経験をするのかを予見することはできません。その人の身体の中に入って、その人の意思を生きることなんかできませんからね。でも、どんな身体を持っているかくらいは『予測可能』でしょ? 男性か女性かどちらかに生まれ、心は一つ、眼は二つ、耳は二つ、頭は一つ、尻尾はついてない…くらいのことは予見可能ですよね。心身複合体として生まれることの不可避性、この深層構造は既決事項であり、予見可能である、そう申し上げてよろしいかと思います。」(pp.18-19)

というふうに噛んで含めるようにお話は始まる。
トーブさんが言う「大きな物語」というのは、人間がどんな歴史的状況においても、決して変らない条件のことである。
それは、「男性または女性であること」と「必ず加齢すること」と「何らかの社会集団(カースト)に帰属すること」である。
例えば、人間は幼児から青年期を経て壮年になり、やがて老いる。
この流れは不可逆である。
老人として生まれてきて、だんだん幼児化する人間というのは存在しない。
そして、老人であるときと少年であるときは、ものの考え方も感じ方も変る。
必ず変る。
「変る」ということは「変らない」。
人類の歴史もそのようにある種の「流れ」の中にある。
人類史の発達モデルと個人の成熟モデルは同一のものである。
トーブさんはそう考えている。
人類はある種の霊的階梯をゆっくり昇っている。
それはキリスト教が教えるような「最後の審判」に至る直線的時間ではないし、ヘーゲルがいうような絶対精神の顕現過程でもないし、「歴史の終焉」や「文明の衝突」のような無時間モデルでもない。
幼児が老人になるような粛々とした霊的成熟の過程である。
幼児には届かない「霊的召命」を成人は聴き取ることができる。
ほとんど同じことばをレヴィナス老師も『困難な自由』の冒頭で語っていた。
「大人になれ」
私は人類史が予定調和の成熟の階梯をたどっていることについてトーブさんのような深い確信を共有することはまだできない(30頁しか読んでないから)。
けれども、どのような説明の仕方であれ、「大人になれ」という遂行的なメッセージをそれが発信する限り、私はその言説に耳を傾ける用意がある。
明日も一日読書だ。
--------