憲法記念日なので憲法について

2005-05-03 mardi

五月三日は憲法記念日であるので、今年も憲法についてひとこと。
今朝の朝日新聞の報道によると、朝日が実施した全国世論調査の結果、「憲法を改正する必要がある」と回答したものが56%(昨年53%)、「改正の必要がない」が33%(35%)。

「自衛隊を巡っては、『存在を明記』と『普通の軍隊とする』を合わせて、憲法改正による位置づけをもとめる意見が七割に達した。」
「ただ、9条をどうするかについて聞くと、『変えない方がよい』(51%)が半数を超える。自衛隊と憲法の整合性を求める反面、平和主義は堅持したい意識がうかがえる。」

と記事にはあった。
私の憲法改正についての意見は『ためらいの倫理学』のときから変らない。
武道を四十年やってきた人間として、「武とは何か?」という本質論についてだけはおそらく憲法調査会のどの委員よりも長く私は考えてきた。
「武」の本質について、私がもっとも得心がゆくのは老子の次のことばである。

「兵は不祥の器にして、君子の器に非ず。已むを得ずして而して之を用うれば、恬淡なるを上と為す。勝って而も美とせず。之を美とする者は、是れ人を殺すことを楽しむなり。夫れ人を殺すことを楽しむ者は、即ち以て、志を天下に得可からず。」(第31章)

ウチダ的に現代語訳すると老子のことばはつぎのようになる。

「軍備は不吉な装備であり、志高い人間の用いるものではない。やむをえず軍備を用いるときはその存在が自己目的化しないことを上策とする。軍事的勝利を得ることはすこしも喜ばしいことではない。軍事的勝利を喜ぶ人間は、いわば殺人を快とする人間である。殺人を快とする者が国際社会においてその企図についての支持者を得ることはありえない。」

いま改憲と九条二項の廃絶をもとめる人々が口々に唱えるのは「ふつうの国になりたい」ということばである。
議論の始点が違うのである。
老子は「君子」たるべき道について論じている。
政論家たちは「凡人」たるべき道(そんなものがあるのか?)について論じている。
繰り返し申し上げているように、私はナショナリストである。
ナショナリストである私の願いは、日本のアイデンティティの確立である。
それは言い換えれば、日本が人類の歴史に「他のどの国を以ても代えることのできない唯一無二の国」として記憶されることである。
その「余人を以ては代替できないような国のあり方」を目指すのが真の愛国心であると考える私からすると、「ふつうの国」(それは「いくらでも替えが効くので、存在しなくなっても誰も惜しまないし、誰の記憶にも残らない国」のことだ)になりたいという人々の気持ちは理解の外である。
「君子国」たること、それだけが私が自国に願っていることであり、私の望みはそれに尽きる。
私が自国のさまざまな制度文物にいちいちうるさく文句をつけるのは、「それが『君子的』ではない」と思うからである。
「ふつうの国」になってほしくてそんなことを申し上げているのではない。
「あなたの人生の望みはなんですか?」と訊かれて、「ほかの人と見分けのつかない人間になることです」と回答するというオプションはある種の「トラウマ」を抱えた人間にはありがちなことだ。
私はそのような病者については、その選択を責めようとは思わない。
しかし、一国の為政者や「選良」を自負している人間が「アイデンティティの喪失によるトラウマの解消」を政治目的に掲げて、それを白昼堂々と論じている図は私の常識を超えた風景である。
私は日本が「唯一無二の国」になってほしいと望んでいる。
改憲論者たちの多くは、日本が「どこにでもある国」になることを望んでいる。
この最初の「ボタンの掛け違え」がおそらくそのあとのすべての議論のすれ違いを生み出している。
私が『ためらいの倫理学』以来申し上げているのは、兵は「不祥の器」であるが、「已むを得ずして之を用うる」機会はつねに潜在するから、それを持たずにいることはできないということである。
しかし、それは軍事的に優位に立ったり、軍事的に勝利したりすることが「よいこと」だからではない。
それはあくまで「不祥」の、すなわち「二度と起きてはならない」災厄として観念されなければならない。
二度と起きてはならない事況に備えて、できるだけ使わずに済ませたい軍事力を整備すること。
この矛盾に引き裂かれてあることが「兵」の常態である。
勝たなければならないが勝つことを欲望してはならないという背理のうちに立ちつくすのが老子以来の「兵の王道」なのである。
私は憲法九条と自衛隊の「併存」という「ねじれ」を「歴史上もっともみごとな政治的妥協のひとつ」だと考えている。
憲法九条と自衛隊の「矛盾」が期せずして(「期せずして」というべきだろう)、戦後日本に「兵にかかわる老子的背理」を生きることを強いた。
その「ねじれ」続いた戦後55年間、わが国の兵は一度も海外で人を殺傷することがなく、わが国の領土が他国軍によって侵略され、国民が殺傷されるという不幸も訪れなかった。
その相対的な平和状態こそがわが国の戦後の驚異的な復興・経済成長と隣国との相対的に安定した外交関係を担保してきた。私はそう理解している。
この歴史的事実そのものが「老子的背理」のみごとな実践例ではないのか。
その上で、「自衛隊と憲法の不整合を解消したい」と主張する人々に訊ねたい。
「憲法と自衛隊の存在が不整合であることから得られた利益」(これは歴史的事実としてすでに証明されている)よりも「整合的であることから得られる利益」(これは非現実にかかわることであるので、予測を語るしかない)が大であるとする論拠を教えて頂きたい。
もし、1950年のマッカーサーによる警察予備隊創設の時に、「これは憲法九条と整合しないから、九条を廃止する」という決定が下されて、「ねじれ」があらかじめ解消された状態でその後の55年が経過した場合、日本はいまよりもずっとよい状態になっていたということについて、どなたかがSF的ではあれ説得力のある論証をしている場合に限り、「整合性がない」という表現は批評的価値を持つだろう。
だが、私の知る限り、「憲法と自衛隊の整合の必要」についてうるさく主張する人間の中に、整合性を得ることが「戦後60年間の日本の平和と繁栄」以上の何をもたらしたはずなのかを「条件法過去形」で推測し、これから先の日本にどのような素晴らしいことをもたらすのかを「未来形」で予言する作業に知的資源を投資する気のある人はどこにも見あたらない。
彼らはただ呪文のように「整合性がないのは、おかしい」というだけである。
呪文が呪文としてある種の政治的力をもつことを私は認める。
けれど、呪文を科学的言説めかして語るのはフェアなふるまいではない。
「整合性がない」というのは呪文である。
その主張にどのような正統性があるのかを聞く人に論証する気がないままに垂れ流されていることばは、どのように「整合的な」かたちをとっていても本質的には「呪文」である。
私はそのようなことばに耳を貸す習慣はない。
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