またアンケートが来た。

2005-05-02 lundi

『文藝春秋』からアンケートが来た。
この前は『次の総理はこの人』についてのアンケートだった。
その次は『憲法改正試案』(これは『諸君!』から)についてのアンケートだった。
今回は「中国の反日」特集だそうで、「小泉首相の靖国神社参拝を取りやめるべきか」についての三択(「取りやめるべきだ」「取りやめるべきでない」「どちらともいえない」)とその理由を400字以内で、というものである。
ご案内のとおり、私は小泉首相は靖国参拝を取りやめるべきだと考えている。
すでにここには繰り返し書いていることだが、その理由を改めて記す。

「隣国と正常で友好的な外交関係を維持することは重要な国策の一つである。
戦没者の慰霊も国民的統合のために重要な儀礼の一つである。
どちらが優先すべきかについての汎通的基準は存在しない。
複数のオプションのうちどれがもっとも多くの国益をもたらすかを比較考量して、そのつど定量的に判断すべきであり、ことの正否を一義的に決する審級は存在しない。
『靖国に参拝することによって得られる国益』が『それによって損なわれる国益』よりも大であることについての首相の説明に得心がいけば私は靖国参拝を支持する。
私が首相の参拝を支持しないのは、自らが下した重大な政治判断の適切性を有権者に説得する努力を示さないからである。
自らの政治判断の適切性を有権者に論理的に説明する意欲がない(あるいは能力がない)政治家を支持する習慣を私は持たない。」

私が政論家に向かってお願いしているのはいつも同じことである。
「どうか私を説得してください」
私は私を説得するためのことばを聴くためにはかなりの時間を割く用意がある。
だから、ここで首相の靖国参拝を支持するみなさんに改めてお訊きしたい。
「靖国参拝によって得られる国益」が「それによって損なわれる国益」よりも大であるというご判断の根拠をお示し願いたい。
私が問題にしているのは、小泉純一郎個人のエモーションの純良さやその憂国の至情ではない。
政治的効果という一点である。
政治家の仕事は国益の最大化である。
そのためにおのれの政治的信条や好悪を「かっこに入れる」ことができない人間には政治家としての適性はないと私は考えている。
そして、わが国がいま隣国から外交的に侮られているというのが事実だとすれば(事実だが)、その理由は、自衛隊の軍事力が脆弱だからでも、自衛隊と憲法九条の不整合が致命的なものだからでもない。
わが国の為政者がしばしば「国益以外のもの」を優先的に配慮していることを隣国の政治家たちが知っているからである。

と書いたあとに、アンケートを投函するついでにモスバでお昼ご飯を食べる。
私は重度の活字中毒であるので、モスバに行くにも本を持参する。
何かないかなと見回したら、私が「憲法第九条改正」についてアンケート回答を寄せた『諸君!』が目に付いたので、それを抱えてでかける。
モスバでロースカツバーガーが来るのを待つ間に読む。
読んでいるうちに考え込んでしまった。
みなさんは「ナショナリスト(民族主義者)」と「ショーヴィニスト(排外主義者)」の違いをご存じだろうか。
おそらく厳密な区別をされる方はあまりおられまい。
私は「ナショナリスト」であるが、「ショーヴィニスト」ではない。
私が読んだ限り『諸君!』の寄稿者の多くは「ショーヴィニスト」ではあるが、「ナショナリスト」ではないように思われた。
その違いは、ショーヴィニストは自国領の保全を求め、自国民の安全を求め、隣国からの敬意と畏怖を求めるあまり、自国領が侵害され、自国民が傷つけられ、隣国からの侮りを受けるときに、それを「喜ぶ」という倒錯に犯されている点にある。
先般、道頓堀に芝居を見に行ったとき、右翼の街宣車がやたら大音量を発して中国の反日デモを攻撃していた。
彼らはたいへん元気そうであった。
中国がろくでもない国であり、日本の主権を侵害するならず者国家であることが大使館に対するデモや投石で証明されたことはどうやら彼らに多くの生き甲斐を与えてくれたようであった。
もしそのデモに巻き込まれて日本人の死者が出ていたら、彼らはおそらくもっと「幸福そう」だったろう。
何度も書いたことだが、排外主義者のピットフォールは隣国を憎むあまり、その国の為政者が邪悪であり、国民が愚鈍であることを論証することを、自国の利益を護ることよりも優先させる傾向のうちにある。
そして、隣国の為政者の邪悪さと国民の愚鈍さの最も説得力のある例証は、彼の国が自国の領土を侵犯し、自国民の権益を損ない、自国民を死傷することである。
だからショーヴィニストたちは無意識のうちに「そういう事態」が到来することを望むようになる。
『諸君!』の寄稿者のひとりは韓国が竹島を北朝鮮に譲渡し、そこにテポドンの基地ができるという韓国のSFを紹介していた。
その弾むような筆致から、その空想が彼にとってはほとんど愉悦的な経験となっていることが知られた。
私はナショナリストではあるが、ショーヴィニストではない。
ふつう、ある国の国益は、隣国の為政者が邪悪で、国民が愚鈍である場合よりも、そうでない場合の方が確実に担保されるだろうと考えているからである。
その点で、ショーヴィストと(私のような)ナショナリストは、隣国の政治判断について、しばしば正反対の反応を示すことが起きる。
ショーヴィストはしばしば隣国政府が「愚策」を犯すことを喜び、ナショナリストは隣国政府が「賢明な政策」を選択することを喜ぶ。
私は隣国政府の政治判断の賢明さを考量するとき時、「その国が取りうるオプションのうちで」という限定条件をつねに加えることにしている。
例えば、中国が尖閣列島の領有権を放棄して、中国領海内にまで及ぶ海底資源についても「ぜんぶ日本に上げる」という政策を採った場合、それがわが国に大きな利益をもたらすことはまぎれもない事実である。
けれども、それが中国政府にとって「賢明な政策」であるとは考えにくい。
だから、そのようなオプションを中国政府が選択する可能性はゼロである。
選択する可能性がゼロである選択肢を中国政府に要求するのは時間の無駄である。
中国が取りうる可能性の範囲内で「わが国の利益を最大化する施策」は何か?ということに頭を使う方がはるかに効率的であるだろう。
しかし、ショーヴィニストは「国益の比較考量」というような散文的なプロセスにはあまり関心がない。
まったく関心がないと申し上げてもいいかも知れない。
いちばん大きな理由は、「相手国のとりうるオプティマル・オプションは何かについての比較考量」は「邪悪な隣国と正義のわが国の二項対立」に比べて知的負荷が大きいからである。
平たく言えばそういうことである。
いつの世でもナショナリストよりもショーヴィニストの方が元気である理由はもうひとつある。
他人が賢明であることから利益を得る人間と、他人が愚鈍であることから利益を得る人間では、あきらかに後者の方が利益を得る確率が(経験的には)高いからである。
「他人が愚鈍であることから利益を得る人間」は、その高収益体質を維持することを望む。
そして、できるだけ多くの人間ができるだけ愚鈍であるような社会制度を構築するために全力を尽くすようになるのである。
夢のポジティヴ・フィードバックだ。
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