毎年連休の一日は京都の美山町の「哲学する樵」小林直人さんとご令室の「おはぎ」のところを訪れるようになってかれこれ15年になる。
最初に美山町に行ったのは、るんちゃんが1歳のときだから83年の夏。
それからしばらく間があって、私たちが芦屋に引っ越してきてからは(父が危篤だった1年を除いて)毎年、山菜天ぷらを食べに新緑の美しい京都のこの深山を訪れている。
ウチダは「一度始めたことは止めない」という生活則を牢固として死守している。
反復を通じてしか味わえない「雅趣」というものがある。
それは「変化」である。
自然科学の追試と同じく、「それ以外のすべての条件を等しく」設定した場合にのみ「変化」は有意なものとして検知される。
私が22年前にはじめて美山町鶴ヶ岡の手前のコーナーを走り抜けて小さな滝に目をとめたとき、私が運転していたのは赤いホンダ・シティであり、横には妻がおり、後部シートでは1歳のるんちゃんがすやすや眠っていた。
しばらくして、私はレイバンのサングラスをかけて、小学生の陽気なるんちゃんを横にのせて、ビーチボーイズをふたりで歌いながら、黒いローバー・ミニで同じコーナーを駆け抜けた。
それから数年して、私は高校生の少し不機嫌なるんちゃんを横にのせて、おし黙ったままキャロル・キングを聴きながら、銀色のスバル・インプレッサで同じコーナーを走り抜けた。
今年、私はひとりでロッド・スチュアートの歌う That old feeling に唱和しながら初夏のまぶしい光に目をしばたたかせてBMWで同じコーナーを走り抜けた。
「走馬燈のように」という修辞はもう死語だけれど、ほんとうにその瞬間に「走馬燈のように」過去の22年間が脳裏をよぎる。
あと何年かすると、私の車がそのコーナーを「もう」走り抜けない年が来る。
時間が可視的なものとなる瞬間。
そういう特権的な瞬間が私は好きだ。
そして、そういう特権的な瞬間を味わうためには、決して変らない美しい風景と何年経っても変ることのない歓待の笑顔への期待がぜひとも必要なのである。
--------
(2005-05-01 20:46)