拭いたティッシュが五万枚

2005-04-28 jeudi

『冬のソナタ』全20話を見終わる。
今頃こんなところに感想を記すのはまことに時宜を得ない発言であることは重々承知であるが、あえて言わせていただく。
泣いた。
ずいぶん泣いた。
ユジンが泣くたびに、チュンサンが泣くたびに、私もまた彼らとともにハンカチ(ではなくティシュだったが)を濡らしたのである。
『冬ソナ』は日本の中高年女性の紅涙を絞ったと巷間では喧伝されていたが、そういう性差別的な発言はお控え願いたいと思う。
五十余年の劫を経た老狐ウチダでさえ、「それから10年」というタイトルが出たところから(第一話の終わりくらいからだね)最後まで、暇さえあればむせび泣いた。
心が洗われるような涙であった。
「ユジン、戻り道を忘れないでね」
というところでは、頬を流れる涙を止めることができなかった。
ミニョン、おまえ、ほんとうにいいやつだな。
一方、サンヒョクが「ユジン、もう一度やり直さないか」と言うたびに、チェリンが「ミニョン、私のところに戻ってきて」と言うたびに、私はTV画面に向かって「ナロー、これ以上うじうじしやがると、世間が許してもおいらが許さないぞ」と頬を紅潮させて怒ったのである。
ともあれ、一夜明けて、われに帰ったウチダは、映画評論家として、この世紀の傑作についてひとことの論評のことばを述べねばならない。
私は自分が見る予定の映画については映画評というものを事前には読まないことにしている。
だから、『冬ソナ』について私がこれまで得た知識は、三宅接骨院の待合室でめくる女性誌の「ヨン様」関連記事だけであった。
さいわい、女性誌の提供する情報は、どのようなものであれ作品鑑賞上益するところも害するところも全くない(ということを今回しみじみ実感した。世にあれほど「情報的に無価値」な情報を提供するメディアが存在するということも驚嘆すべきことではあるが)。
女性誌の報じるとおり、ペ・ヨンジュンくんが本邦で「ヨン様」と呼称され、彼に関するいかなる貶下的コメントも熱烈なるファンたちから断固として排撃せられてきたその理由が私にはよくわかった。
それ以外に私はこの作品についての体系的批評というものを読んでいない。
唯一の例外は兄上さまから拝聴した「韓流ドラマ四つのドラマツルギー上の秘法」すなわち「身分違いの恋」(これは『初恋』についてのものであり、『冬ソナ』には適用されない)「親の許さぬ結婚」「不治の病」「記憶喪失」がドラマの綾となるという知見のみである。
しかし、私は今回韓国TVドラマおよび韓国恋愛映画に伏流するドラマツルギー上の定型が何であるかを確信するに至った。
それについてご報告申し上げたい。
それは「宿命」である。
宿命というと大仰だが、言い換えると「既視感」である。
「同じ情景が回帰すること」
それが宿命性ということである。
フロイトはそれを「不気味なもの」と名づけた。
重要なのは「何が」回帰するかではなく、「回帰することそれ自体」である。
わけもなく繰り返し訪れる「同一の情景」。
それに私たちは呪縛される。
同じ状況が意味もなく繰り返されるという事実のうちに私たちは人知を超えた何ものか、「神の見えざる手」を直感するのである。
「宿命」について、かつてレヴィナス老師はこう書かれたことがある。
宿命的な出会いとは、その人に出会ったそのときに、その人に対する久しい欠如が自分のうちに「既に」穿たれていたことに気づくという仕方で構造化されている、と。
はじめて出会ったそのときに私が他ならぬその人を久しく「失っていた」ことに気づくような恋、それが「宿命的な恋」なのである。
「初恋」が「二度目の(あるいは何度目かの)恋」として、眩暈のするような「既視感」に満たされて重複的に経験されるような出会い。
私がこの人にこれほど惹きつけられるのは、私がその人を一度はわがものとしており、その後、その人を失い、その埋めることのできぬ欠如を抱えたまま生きてきたからだという「先取りされた既視感」。
それこそが宿命性の刻印なのである。
だから、どのような出会いも、作為なく二度繰り返され、そこに既視感の眩暈が漂うと、私たちはそこに宿命の手を感じずにはいられない。
『猟奇的な彼女』も『ラブストーリー』もそうだった。
『冬ソナ』は全編が「同一情景の回帰」によって満たされている。
そういう意味ではきわめて経済効率のよい脚本である。
なにしろ「同じ情景」が二度繰り返されると、みんな感動しちゃうんだから。
私だって、「その手はもうわかった」とうめいたこともある。
しかし、二度の交通事故、二度の「入院」による関係の断絶、そして繰り返される二人の偶然の出会い(一度目はチュンサンとして、二度目はミニョンとして、三度目はチュンサンとして、四度目は…)という「これでもか」とたたみかけるような「同一情景再帰の手法」の前にウチダはなすすべもなく、ただ滂沱の涙で応じるばかりだったのである。
ラストシーンで私はまた泣いた。
必ずや二人は偶然の糸に導かれてまた会ってしまうに違いないと知りつつ、その偶然の糸をウチダは「作為」ではなく「宿命」と呼びたくて、「宿命」の甘美さに、泣いた。
わかっちゃいるけどやめられない的に泣いた。
この確信犯的な「宿命の乱れ撃ち」に、条理をもって抗することは不可能である。
なんとでも言うがよろしい。
私はDVDを買うことにした。
おそらくこれから先、心が凍てつく夜が訪れる度に、私は「予定調和的な宿命」というドラマの不条理に「やっぱ人生って、こうじゃなくちゃ」と深く頷きつつ、熱い涙を注ぎ続けるであろう。
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