ラリー・トーブ&鷲田清一両先生との一日

2005-04-27 mercredi

ブログ日記には何でも書いておくもので、Lawrence Taub さんのことを書いたら、いろいろな人からどっと情報提供があって、トーブさんのHPを教えて頂いた。
さっそくそこにあったアドレスにメールを送ったら、すぐにご返事が来た。
トーブさんはいま日本にお住まいで(来年半ばに離日されるそうであるが)、『Spiritual Imperative』はなんとご本人のところに申し込むと手ずから現品をお送り下さるそうである。
さっそく書留で代金をお送りして、本を手配する。
興味のある方は他にも多々おられるであろうから、ここにご案内しておく。

Website without ads:
http://www.larrytaub.com
http://www.spiritualimperative.com
Website with ads:
http://larrytaub.tripod.com
Article in Asia Times, April 7, 2005 http://www.atimes.com/atimes/China/GD07Ad07.html

トーブさんは日本語もおできになるそうで、私の先日のブログ日記もそこに書き込まれたコメントやTBの記事も読んでおられたそうである。
天網恢々疎にして漏さず。
「同じ時期に日本にいらっしゃるなんて奇遇ですね」と書いたら(もちろん英語で書いたんだよ)、トーブさんも「不思議なご縁を感じます」と書き送ってきた。
こういう「ご縁もの」というのは、わりと「当たり」なのである。
たまたま大学院の授業は中国研究であるから、当然のように昨日の演習では『Spiritual Imperative』の話をご紹介する。
たまたまNTT出版のM島くんがゼミに遊びに来ていて、その話を聴いているうちに「どこもまだ翻訳権取ってないですよね…」とすでに中腰姿勢に入っている。
なことをブログに書くと、あちこちの出版社の人が同じように中腰姿勢になるかもしれないので、M島くんは翻訳権の確認を急いだ方がいいかもしれない。

ゼミでは渡邊さんに「中国の政治的エートス」という主題で先週に引き続き一覧的なしかたで中国の政治史について概説してもらう。
中心的な論点のひとつは日中交渉史であるが、その中の「清算できない過去の侵略の歴史」ということについて、どうも私たちは力みすぎているのではないかという話になる。
別に保守派の論客たちが言っているように「もう外交的決着はついているんだからがたがた言うな」とういうたぐいの議論をしたいわけではない(そんなこと私が言うはずがない)。
外交的決着がつき、条約的には「手打ち」が終わっているにもかかわらず、「謝罪と補償」の問題が繰り返し浮上するのは、問題が外交レベルには「ない」ということを意味している。
本質的な確執が外交レベルにはない問題を、外交レベルでは「決着ずみ」だと言ってみても始まらない。
この場合の「本質的な確執」は歴史的「事実」の問題ではない。
歴史的事実の「解釈」の水準の問題である。
例えば、靖国神社への参拝が中国や韓国の人々が言うように「軍国主義的過去の正当化」であるというのが事実であるとすれば(かなりの程度まで事実だと私は思うが)、敗戦国の首相がそのような挑発的な政治的ジェスチャーを繰り返すことに対して、同じように強い不快の念を表してもいい戦勝国が他にもあるはずである。
アメリカ合衆国である。
アメリカは直前の戦争で、「日本軍国主義」と戦い、硫黄島で29000人、沖縄戦で12000人の戦死者を出した。
当然、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、太平洋戦争で日本軍に殺された自国の数十万の戦死者たちの「英霊」の天上での平安を護るべき立場からして、小泉首相に強い抗議を申し入れてよいはずである。
「ふざけたことをするな」と。
「アメリカ人を殺した日本兵士たちを一国の首相がすすんで慰霊するということは、次なる対米戦争、二度目の真珠湾攻撃のための心理的準備を行うことに等しい」と。
だが、アメリカ大統領はそういう申し入れをしない。
どうしてアメリカはしないが、韓国や中国はするのか。
私は別にアメリカがしないんだから、韓国中国もするな、というようなことを申し上げたいのではない。
アメリカからのそういうクレームは理論的には「あり」だと私は思う。
にもかかわらず現実には「ない」。
私たちが注目すべきなのは、中国韓国から「クレームがつく」ことではなく、むしろアメリカから「クレームがつかない」ことの方なのである。
シャーロック・ホームズとミシェル・フーコーはともに「『どうしてその出来事が起きたのか?』ではなく『どうしてその出来事は起きたのに、それとは別の出来事は起きなかったのか?』を問うこと」を彼らの推理術の重要な技法として駆使した。
私も両家の驥尾に付して、同じ推理を行ってみたいと思う。
どうして、アメリカは日本の首相が自国民を殺害した兵士たちを慰霊することに対して「別に、どうでもいい」という態度を示しているのか?
それは日本がアメリカ領土を侵略したことがないからではない(現に真珠湾を攻撃した)。
アメリカ人を殺さなかったからではない(現にたくさん殺した)。
アメリカ人を虐待しなかったからでもない(現に米兵捕虜虐待の事例が多く報告されている)。
それにもかかわらず靖国神社の公式参拝にアメリカ大使館が強く抗議し、日米同盟の廃絶カードをちらつかせるということをしないのは、戦争が終わったときに、「そのこと」はとりあえず忘れておくことに日米が合意したからである。
「そのことをとりあえず忘れておく」ことのもたらす利益の方が「そのことを折に触れて持ち出す」ことの利益よりも大きいということについて、日米両国民のマジョリティの間で暗黙の合意が成立していたからである。
他に理由はない。
「歴史的出来事」というのは生きている側の都合で「棚上げ」されたり、「忘れられたり」「思い出されたり」する。
良い悪いではなく、「そういうもの」なのである。
典型的なのはキリストの受難だ。
キリストに死刑を宣告したのはローマ総督ピラトである。
キリストを磔刑に処したのはローマ兵である。
このことは四つの福音書すべてが証言している。
しかし、今日、イタリア人に向かって「イエスを殺したのはあなたたちの祖先なんですよね」というひとは誰もいない。
世界中の人が熟知している歴史的事実なのに。
それは「イタリア人がイエスを殺したこと」を「とりあえず忘れておくこと」の方が、「そのことを折に触れて持ち出す」ことよりも利益が大きいという政治的判断を世界のマジョリティが共有しているからである。
イタリアのカトリック信者にとってもバチカンにとっても、それは「決して触れて欲しくない忌まわしい過去」である。
だから、人々はイタリアのキリスト教徒を気づかって、「そのこと」は知っているけど、知らないふりをしているのである。
人間というのは「そういうこと」ができる生き物である。
人間のそういう能力を「ずるい」とか「弱い」とか「非倫理的」とか断罪しても仕方がない。
トラウマ的経験を忘却するか思い出すかを決定する差異はトラウマ的経験それ自体に内在するわけではない。
それはその経験が置かれる文脈に依存する。
歴史的な出来事の回帰と忘却の力学は文脈依存的である。
私たちは他人を傷つけた経験を選択的に忘れるばかりでなく(中国や韓国における植民地主義的侵略の経験を私たちは忘れたがる)、自分が傷つけられた経験もまた忘れることができる(敗戦の直後の日本人たちは日米の死闘がまるで悪夢でもあったかのような柔和な微笑をGIたちに向けた)。
問題はその能力の「善し悪し」を論うことではなく、その「非倫理的な」能力から引き出しうるもっとも「倫理的な」アウトカムは何か?というふうに問いを立てることである。
というふうに私は考えるのだが、もちろん、こういう考え方に同意してくれる人間は驚くほど少ない。
メディアでにぎやかに外交を論じている人間の中にはほとんどひとりもいない。
しかたがないので、ブログ日記にさくさくと書き記すのである。

演習が終わって小走りに梅田へ。
『ミーツ』の「哲学・上方場所」の収録最終回を中之島のリーガ・ロイヤルのリーチ・バーでやっているので、その打ち上げにお招き頂いたのである。
レギュラーの鷲田清一先生、永江朗さんに、晶文社の安藤さん、『ミーツ』の江さん、青山さん。そに私とM島くんが乱入。
最終回のテーマはメルロー=ポンティ『知覚の現象学』。
メルロー=ポンティは私の卒論のテーマであり、『知覚の現象学』は私が大学時代にもっとも長い時間をかけて読んだ書物の一つである。
私たちが到着したときはすでに3時間余にわたる対談が終わって、全員宴会状態となっていた。
鷲田先生に遅ればせながら、先般のBSでの『東京ファイティングキッズ』ご推挽のお礼を申し上げる。
鷲田先生からは小池昌代さんの話を伺う。
朝日の書評委員会でよくご一緒になるそうである。
実物はテレビ画面以上に美しい方であるらしい。
「その小池さんがウチダさんのファンなんやもんなあ。口惜しいわ」
「一度平川と一緒に小池さんご招待して、シャンペンでも差し上げようと思ってるんですけどね」
「ええなあ…」
そのあと岸和田人清原和博の話、父子家庭における母性愛について、婚姻と他者性について、などハイブラウな話題が続く。
鷲田先生と今度一緒に「ラジオのDJ番組」をやりましょうかという企画が突発的に盛り上がる。
毎週1時間ほど鷲田先生と私がとりとめもなくおしゃべりをするのである。
鷲田先生は「はんなり」とした京都弁で話され、私は噛み気味の東京弁であるのだが、この水と油のように思える語法の違いは、実際に話してみると、意外なことにたいへん相性がよろしい。
ときどきゲストに遊びに来てもらう。
あ、まず小池さんに来てもらおう!
果たしてウチダのDJレギュラー化はいずれ実現するのであろうか?
つうか、そんなことしている時間が私にはあるのだろうか?
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