大学院の最初のお題は「中国の経済」。
プレゼンテーターは京大の博士課程で経営学を研究している元『ミーツ』の担当編集者のカンキくんである。
カンキくんが進学のために『ミーツ』を辞めたあと後釜に座ったのがこの大学院の男子聴講生募集に応じた第一期生のオーサコくんである(彼はゼミの教室で江編集長にリクルートされてエディターになってしまったのである)。
私が『ミーツ』に対して有意に態度が大きいのは窓口が「ゼミ生」だからである。
03年度の第一期生はその『ミーツ』の江さん、ワタナベ・エディトリアルの渡邊さん、ドクター佐藤、読賣新聞の谷口さん、浜松のスーさん、ジョンナム・ナガミツ、光安さん、“ほんとはいいやつ” ミヤタケなど多士済々であった。
今年は第三期。男子聴講生数はだいぶ減って、第一期以来三年連続はワタナベさんとカゲウラくんだけとなった。
オーサコくんに代わってカンキくんが登場したので『ミーツ』系は1名枠をキープしている。
新顔は「えこま」のフクイさんと、「歌う牧師」カワカミ先生。
学部の学生にも「盗聴」を許可しているので、ゼミの四回のムネイシくんが遊びに来た。
もちろん大学院の演習であるから本学修士博士の諸君がぞろりと揃っている。
なかなか壮観である。
さっそくプレゼンを拝聴する。
このチャイナ・スタディーズ・セミナーはご案内のとおり「中国問題の専門家」がひとりもいない。
だから、最初のうちは経済、政治、歴史、社会などについて総攬的・通史的な概況を示してもらい、それから個別的なテーマに入って行くというプロセスを考えている。
「あのー、先生。『文、書く』って何度もおっしゃってますけど、何の文を書けばいいんですか?」
「トーショーヘーって、広東の名物料理のことですよね?」
というような問いかけが秋頃に出されると困るからである。
とりあえず第一回は焦眉の問題である中国の経済問題を通覧する。
カンキくんがスマートなプレゼンで問題点をいくつか提示してくれる。
そのあと私が「チャイナ・リスク」について私見を述べる。
私は「チャイナ・リスク」には四つのファクターがあると考えている。
第一は、多くの中国ウォッチャーが指摘しているように、中国では急速な資本主義化が進行しているが、経済活動の規模に対して、組織原理や職業倫理といったそれを支える「見えない資産」が十分に成熟していないという点である。
「見えない資産」(invisible assets) というのは平川くんがよく言うように、「信用・老舗の看板・顧客とのむすびつき・〈一回半ひねり〉のコミュニケーション」といった直接経済効果としては数値化されないけれど、人間がビジネスを継続的に展開し、そこに愉悦を見いだすためにはなくてはすまされないファクターのことである。
日本の近代資本主義企業は江戸時代の「大店」の組織原理をほとんどそのままに踏襲した。
「ご主人」が「社長」に、「大番頭はん」が「重役」に、「小番頭はん」が「部長」に、「手代」が「課長」に、「丁稚どん」が「ヒラ社員」になっただけである(『小早川家の秋』の山茶花究と藤木悠の会話シーンは衣装を換えれば、そのまま江戸時代の造り酒屋の帳場の会話である)。
日本の近代企業の労働者の「エートス」は賃金以外の準・家族的結びつきによって複雑に練り上げられた「伝統の逸品」である。
それが明治以降の驚異的な近代化と経済成長を支えていた。
それに類する「アセッツ」が中国資本主義には熟成していない。
「チャイナ・リスク」の第二のファクターは2億人といわれる失業者である。
彼らは年率8-9%という経済成長の勢いの中にとりあえず紛れて問題化していないが、経済成長が7%を切った段階では社会の重要な不安定要素になると言われている。
経済成長率が7%を切ったら「社会危機」というのは、時速50マイルを切ったらバスが爆発というキアヌ・リーヴスの『スピード』の状況に似ている。
中国は成長し続けなければならない。
しかし、成長し続けられる社会は存在しない。
第三のファクターは二億五千万に達した「中間層」である。
これだけの規模の中産階級が登場したのは中国史上はじめてのことである。
彼らの階層的な欲望や戦略が不透明で、先が読めない。
現在までのところ、この中間層は「生産主体」、「消費主体」としての有用性においてのみ語られてきた。
現在の反日デモの主体はこの階層の出身者だと言われている。
それはこの中間層が「政治主体」としても中国社会の表舞台に登場してきたということを意味している。
遠からずこの層は「言論の自由・信教の自由・集会結社の自由・移動の自由」など先進国における基本的人権を要求しはじめるだろう。
それは中国共産党の一党独裁が否定されるということである。
はたして中国共産党は多党化・民主化に向けて舵を切って、自己の存在そのものを否定するという政策を採択できるだろうか?
中国共産党が飽くまで一党独裁に固執した場合に、どのようなフリクションが生じるのか?
そんなことは、誰にも予測できない。
第四のファクターは中国政府のガバナビリティに対する不安である。
ただし、ここでいう「ガバナビリティ」というのは、みなさんが想像している「統治能力」というのとはだいぶスケールの違う話である。
胡錦濤-温家宝政権はかなり効果的な治績をあげている。
だが、人類史上13億人の国民を効果的に長期的に統治しえた政体は一つとして存在しない。
だから、中国の為政者はその統治戦略において「モデル」というものを持っていない(「大唐帝国」や「大モンゴル帝国」の統治システムは21世紀の世界に適用することができない。当たり前だけど)。
現代中国の為政者が政策決定に際して勘定に入れなければならないファクターはおそらく日本の為政者が勘定に入れなければならないファクターの数倍から数十倍だろうと私は想像している。
考えてみればわかる。
中国では、近いうちに現在の統治システム「そのもの」を否定する運動が登場する可能性が高い。
つまり、為政者が政策を誤った場合に、「政権の交替」ではなく、「政体そのものの交替」を選択しなければならないということである。
日本の為政者はどれほどの失政を犯した場合にも、野党に政権を奪われるという可能性は想定できるが、「天皇親政に戻る」とか「藩幕体制になる」とか「普通選挙が廃止されて、制限選挙が行われる」とか、そういう種類の社会の根底的変化への備えを講じる必要がない。
中国では政府中枢のハードパワーが落ちてきた場合に、西部地域やモンゴル地域で「独立運動」が勢いづく可能性がある。
日本の場合、政府がどれほど愚策を重ねても、それを理由に北海道が独立するとか九州が独立するという可能性を考慮する必要はない。
しかし、中国の政府首脳は政策決定に際して、ほとんどそれに類する「SF的想定」をつねにシミュレートしておかなければならないのである。
私たちは簡単に「日中関係」とか「日中首脳」というようなことばを口にして、このふたつの政治単位がまるで同種の国民国家、同水準にある政治システムであるかのように論じている。
だが、私はそれは危険な類推だろうと思う。
日中の首脳では抱えている問題・解法がわからない政治的難問・勘定に入れなければならない不確定要因の「桁」が違う。
日本の為政者と中国の為政者では「失政」によるリスクの「桁」が違う。
日本を効果的に統治できる政治家なら中国を効果的に統治することができると考える人間がいたら、その人は致命的に想像力が足りないといわなければならない。
私が「ガバナビリティに不安がある」というのはそういう意味である。
現代世界でもっとも優れた政治的才能をかき集めてきても、いまの状況的与件の中で、中国を効果的に統治して13億の国民の生活を安定させる施策を立案させ続けることは絶望的に困難である。
誰がやってもできそうもないことをやらなければならないという意味で私は「中国政府のガバナビリティに不安がある」と申し上げているのである。
それは中国政府や個別的政策に対する批判ではない。
統御不能なほどに多数のファクターを単一の政治単位が統御しなければならないという事況そのものに対する不安を言っているにすぎない。
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(2005-04-20 11:21)