会議に懐疑

2005-04-19 mardi

会議の一日。
午後1時から午後8時半まで、途中で杖道のお稽古に1時間ほど抜けさせて頂いた以外は、ずっと会議。
教務部長になると「会議漬け」ですよ、と事前にアナウンスされてはいたが、これほどとは…
もちろん、あらゆる問題が事細かにさまざまな委員会で議論される煩瑣な手続きこそが民主主義の基盤であることを私は喜んで認めるし、「賢明な独裁者による独裁」よりは「なかなかことが決まらない民主主義」に迷うことなく一票を投じる。
だから、私はにこやかに(でもないけど)会議に出席し、人々の議論に耳を傾ける用意がある。
しかし、それでも「これはこんなところで議論するべき話ではないのでは…」という案件にもしばしば遭遇する。
議事には「審級」というものがある。
あるレベルで審議されいったん結論を得た案件が、それより上位の議決機関から差し戻されて再理に付されるには、相応の理由が必要だ。
常識的には、原審級で重大な手続き上の過誤か重大な事実誤認がある場合に限られる。
そういう場合に再理が必要とされるというのは筋の通った考え方である。
しかし、いったん機関決定されたことが、それについて不満をもつ個人の異論によって覆されるということが本学ではしばしば起こる。
「…ということが前回決定しましたが」
「そんな話、私は聞いてない」(その日の会議に欠席したから)
で、審議が一からやり直しになるということがある(ほんとに)
「はい、では裁決の結果…と決まりました」
「あのー。裁決が終わったあとに言うのも何ですけど、私やっぱりその議決が納得できません」
で、その人が納得するまで、もう一度審議をやり直すということもある(ほんとに!)
ある意味では超―民主的な組織である。
一事不再理の原則よりも、組織の和を大切にしているという点では、まことに日本的な「ムラ組織」であるとも言える。
私は超―民主主義もムラ的ゲマインシャフトも決して嫌いではない。
むしろ、「好き」と言ってもいいくらいだ。
だから、こういうやりかたそのものに原理的に反対するものではない。
しかし、民主的=ムラ的人間であると同時に、私は骨の髄までビジネスマインデッドな人間である。
だから、ときどき「あのお、そういう超法規的措置もオッケーなんですけど、それって、今の局面では『コストパフォーマンス』が悪すぎませんか?」と言いたくなることがある。
組織の和もたいせつだが、時間や人間的リソースもたいせつだ。
私たちの労働時間は有限だし、使い回しできるエネルギーにも限度がある。
できることなら、有効利用したい。
手持ちのリソースを最大限に活用しなければ生き延びていけない状況の中に私たちは投じられている。
不幸なことだが、これはどうしようもない。
そうである以上、「どの問題」に最優先的にリソースを集中するのかについての合意形成にはあまり超―民主主義的な手間暇をかけることはできない。
このような局面での最悪の選択肢は、「どの問題に最優先的にリソースを集中するかについての合意形成に長時間の議論を割いたせいで手持ちのリソースを使い切ってしまうこと」である。
「諸君には残り時間1時間がある。それをどう使おうと諸君の自由である」
と言われて、「残り時間1時間をフルに使って、『残り時間1時間の使い方』を議論する」というのはたしかになかなかパラドクシカルな時間の過ごし方ではある。
「残り100万円の運転資金をどう有効利用するか?」という議案で経営会議が延々と続いているうちに、気がついたら会議の弁当代で100万円を使い切ってしまったというのもなかなかクリスピーなソリューションではある。
私たちはこれに類する「残り一時間・残り100万円」的な状況にしだいに追いつめられつつある。
そのことを率直に認めなければならない。
私たちには限られたリソースしかない。
時間も人間も予算もシステムも空間もマテリアルも。
それを最も高いコストパフォーマンスで活用しなければならない。
そのときに、「こう使うのがいちばんコストパフォーマンスがいい」「いや、そうではなくて、こう使うのがいい」「なにをおっしゃる…」というような議論に多くの時間と人間的リソースを投じるのはたいへんコストパフォーマンスが悪いということを私は申し上げたいのである。
多田先生はかつて「他の人の技を批判してはならない」という道場心得を説かれたことがある。
そのとき、まだ新米だった私は不審に思って、思い切って先生に「どうして他人の技を批判してはいけないのですか?」と訊ねたことがある。
多田先生はにっこり笑って、こう答えられた。
「他人を批判しても、合気道はうまくならないよ」
まことに得難いお師匠さまである。
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