火事場の夢想

2005-04-18 lundi

大学淘汰の波がだんだんと足元をぬらし始めてきた。
「全私学新聞」(そういうコアな業界紙があるのだ)によると、文部科学省は今後、私立大学の経営悪化・破綻」それにともなう在学者の就学機会喪失という一連のカタストロフを見越した「私立大学経営支援プロジェクトチーム」を発足させることになった。
いよいよ、という感じがする。
すでに私立大学の30%が定員割れを起こしており、単年度の帰属収入で消費支出を賄えない学校法人もすでに全体の3割に達した。
その中での経営支援プロジェクトだが、もちろん傾き始めた私大に投入できるような原資は文部科学省にはない。
だから、文部科学省が行うのは「経営分析を踏まえた助言・指導を通じて学校法人の自主的な経営改善努力を促す」ことであり、それでも沈没しそうな大学には「在学者の就学機会の継続確保」のための法的措置を講じるというものである。
「仮に近い将来、学校の存続が困難になると判断される場合でも、まずは在学生が卒業するまでの間、学校を存続し授業を継続できるよう、最大限の努力を促す。」
そして最終的に大学が破綻した場合には「近隣大学等の協力を求め、転学を支援する」のである。
つまり助言や根回しはする、在学生の就学機会の確保も手伝うけれど、教職員のことはあずかり知らない。雇用確保のための自助努力はあなたたちご自身でやりなさい、ということである。
京都の大学コンソーシアムをはじめ単位互換を行うグループはだんだん整備されてきている。表向きは「いろいろな大学で興味のある科目が学べるよ」という学生フレンドリーな制度であるけれど、内向きの事情は「うちの大学が破綻したときのために、在校生の就学機会を確保しておく」という「保険」の意味も含んでいる。
すでに多くの大学が「大学の経営破綻」を勘定に入れて、破綻にハードランディングしないですむような手立てを講じ始めた。
繰り返し言うとおり、「破綻への備え」の公共的に認知されている最優先課題は学生の就学機会の保障である。
教職員の雇用機会の保障ではない。
教職員の雇用機会の保障は誰もしてくれない。
文部科学省もメディアも学生も保護者も地域社会のみなさんも、誰ひとり「つぶれる大学の教職員の雇用」に配慮する気はない。
そのことを全日本の大学人諸氏にはぜひお覚え願いたいと思う。
私たちの雇用は私たち自身が確保しなければならない。
それはこの大学淘汰状況において、経営的にきびしい大学のスタッフにとっては「労働強化を受け入れる」「賃金の切り下げを受け入れる」「福利厚生その他のサービスの劣化を受け入れる」というようなことである。
給与を上げますから、その分教育サービスの質を上げてくださいというのはリーズナブルな申し出である。
給与を下げますけど、教育サービスの質を上げてくださいというのは飲み込むのがむずかしい要請だ。
しかし、経営的に大磐石という一部の大学を除くと、日本のほとんどの大学教職員はこの「教職員の労働強化と実質的な賃金切り下げ」の逆風の中で、教育サービスの質的向上を果たすことを義務づけられている。
そんなの不条理だ、という人もいるだろう。
しかし、この不条理に耐え抜くことのできない大学は遠からず淘汰される。
不条理に耐えても雇用を確保するか、条理を通して路頭に迷うか。
選択に迷う人はいないと思うが、そうでもない。
先日のある大学のある委員会で私は不思議な発言を何度か聞いた。
それは「金の話なんかしたくない」というものであった。
私たちは教育者だ。
夢のある教育活動や新しいプロジェクトについて語りたい。
「立派な教育プログラムですが、原資がないので実施できません」というような教育者をディスカレッジするようなことを言わないでほしい。
そうおっしゃった先生方が何人かいらした。
金がないとできないことがある。
たしかにディスカレッジングリーにリアルだ。
しかし、この「ディスカレッジングなリアリティ」は私たちが大学の教育プログラムについて新たな計画を構想するときに、勘定に入れ忘れることのできない与件である。
大学教育は大学が存在する場合にしか行うことができない。
だから、「大学をどう存続させるか」というのは大学人にとってたいへん緊急性の高い論件である。
その話をしているときに、「そういう話は聞きたくない。大学教育の中身について語りたい」という気持ちを私は理解できないわけではない。
私だって金のことなど考えずに、夢のような教育プロジェクトについて語れ、それで雇用に不安がないなら、どれほど幸福だろうと思う。
しかし、それは家が火事になりかかっているときに「消火活動については聞きたくない。それより新しい家具の購入計画やその配置について話したい」といっているのに似ている。
ファンタスティックだ。
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