大迫力と書くが読みは「だいはくりょく」ではない『ミーツ』のオーサコくんから歌舞伎のチケットを二枚頂いたので、ドクター佐藤をお誘いして道頓堀の松竹座まででかける。
歌舞伎を平土間で見るのはうまれて始めてである(歌舞伎座の天井桟敷で見たことは何度かあるけれど)。
出し物は「菅原伝授手習鑑」。
たいへんに面白い。
片岡愛之助の松王丸がすっきりしていいてよい感じだった(口跡はやや不明瞭だけど)。
中村扇雀は「車引」では桜丸、「寺子屋」では千代の二役。
女形がすばらしい。
扇雀というと私たちの世代は父親のおしょうゆ顔を思い出すけれど、先代の扇雀はいまは鴈治郎である。
でも、小津安二郎の『浮草』と『小早川家の秋』の中村鴈治郎以外に同名の人がいるということを私はうまく受け容れられないのである。
それにしても、どうして歌舞伎の女形はごく自然に「女性的」なのに、宝塚の男役は技巧的にしか「男性的」たりえないのであろう。
もしかすると、「女である」ということは性別を超えて人間にとって「自然」なことであり、「男である」ということは性別を超えて人間にとって「不自然」なことであるのではないだろうか。
なんだか、そんな気がしてきた。
だとすると、フェミニズムのボタンのかけ違いは、「女性の男性化」という戦略によって性差の解消をはかったことにあったのではなかろうか。
むしろ、彼女たちは「男性の女性化」による性差解消をめざすべきだったのではないか。
その戦略のうちに「救い」を見いだした男性は想像以上に多く存在したのではないだろうか。
私自身も子どものころは女の子とままごとをして遊んでいる方が好きだったし、長じてからも久しく父子家庭で「母親」をやっていたし、ややもすると「おばさん化」する女子大の男性教師の中にあってさえ私の「おばさん化」傾向は突出している。
このような私の半世紀にわたる一貫した「女性化」スタンスをフェミニスト諸姉はかつて一度として「性差の解消のための努力」としては評価してくださらなかった。
むしろ諸姉たちご自身は「権力と銭金と威信を愛するおじさん」化路線を驀進せられていたのである。
あるいはこの「女性の男性化」という路線に対する生理的な嫌悪感が、私の「アンチ・フェミニズム」の根にあるのかもしれない。
というようなよしなしごとを考えつつ道頓堀にさまよいでて、ドクターと心斎橋の明治軒で「オムライスと串カツ」を食べて昼ビールを飲む。
日曜の昼に道頓堀で芝居を見て、帰りに昼酒をきこしめすというのは、なんとなく『細雪』的愉悦である。
昼ビールは少しだけ背徳の味がした。
オーサコくん、ごちそうさまでした。また歌舞伎のチケットあまったら、くださいね。
--------
(2005-04-17 16:22)