ここはシュ、シュ、シュ。

2005-04-14 jeudi

朝起きたら(そういうことはよくあるのだが)、不意にあるフレーズが浮かんできて、それがいつまでも頭の中でリフレインする。
今朝のフレーズは「シュガータウンは恋の街、ザルツブルクは塩の街」
というものであった。
ナンシー・シナトラとスタンダールの双方に思い入れのある日本人にしか思いつかないフレーズである。
というようなよしなしごとを毎日ブログ日記に書いている。
その文体についてひとつ書いておきたいことがある。
ブログは「メモ代わり」という使い方をされる方がブロガーの中にはたくさんおられる(らしい。私はほとんどほかのブログを見ないので、伝聞で知るばかりであるが)。
というのも、先日の『ユリイカ』のブログ作法特集の巻頭の座談会で著名なブロガーのみなさんがブログ文体についてこんなことを話していたからである。

「栗原裕一郎:エディタで書けばいいじゃないですか(笑)
仲俣暁生:いや、それだと面倒で、たぶん更新が続かない。直接書いているから、ガシガシ書けるんだよ。エディタで書くと、なんだか仕事用の原稿を書くのと同じ姿勢になっちゃって、丁寧に推敲をはじめたりしちゃうでしょ。そうすると、もともと思いつきで書いているものだから、いろいろアラが見えてきて、ボツにしたくなる。
栗原:オン書きに近い感覚ですか。
仲俣:そう。むしろ、しゃべっているのに近いかもしれない。
吉田アミ:しゃべり言葉に近くなりますよねー。更新が楽だと。思いついてから書いて発表するまでのスパンが自ずと短くなるので、ふつーなら見せられないような草稿もうっかりアップしてしまうって罠が。まあ、そこがオモシロイところでもあるし、危険なところでもありますが。私はその迂闊さがセクシーだと思っているのでバカを晒すためにもバンバン書いて、書くハードルを低く見積もっていく傾向にあります。これぞインプロ!ってことで。」(76 - 77頁)

なるほど。
私は読んで、ちょっと不思議な気がした。
「もったいないよ」と思ったからである。
私はワードで書いて、推敲して、場合によっては一日寝かせて、それからアップしてから実際の画面で読んで、さらに数回直す。
だから、アップ直後に読んだ人の中には、あとでアクセスしたら文面が変っていたことに気づいた人もいると思う。
調べ物もよくする。
気になったことについては、とりあえず資料に当たって裏を取る。
この「裏を取る」手間をかける時間を少しも惜しいと思わないのが学者というものの奇癖である。
というか、あるデータの裏を取るために読み出した資料をそのまま読み続けて、途中でいったい自分が何のためにこの資料を読んでいるのか、その当初の目的を忘れてしまう…というのは学者の「ひそかな愉悦」の一つである。
私にとってブログ日記のライティング・ハードルはかなり高めに設定されている。
言い換えると、「ブログ日記がそのまま単行本として出版されるような文体で書く」ということである。
だから、原則として文中にリンクを張らない。コメントやトラックバックを参照しないとわからない話もしない(紙媒体では、そんなことできないから)。
紙媒体に最終的に採録されることを前提としてブログ日記を書くというのは、かなり奇妙なスタンスに思われるかもしれないけれど、実はこれは私のオリジナルでもなんでもない。
私はこのやり方をバーナード・ショーに学んだ。
バーナード・ショーは「書きスケ」(@江弘毅)であった。
彼はありとあらゆる問題について、一言言わずにすまない「一家言のひと」であった。
それゆえ、彼はそのつどの政治的事件について社会問題について芸術について毎日その所見を記した。
そして、彼はそれを毎日『タイムス』の「読者投書欄」に送ったのである。
『タイムス』編集部も最初は喜んだ。
文豪バーナード・ショーの「日録エッセイ」が無料で(!)毎日届けられてくるのである。
しかし、いかな文豪の筆とはいえ、他の投稿者への配慮もあり、そう毎日投書欄に「バーナード・ショーさんの今日のご意見」ばかりを掲載するわけにはゆかない。
新聞に掲載させていただくのはせいぜい隔週くらいでご勘弁願うしかない。
しかし、そうやって投書のほとんどがボツになるのも気にせず、ショーは毎日投書を続けた。
そして、数年経ったところで、彼はそれまでの投書エッセイを撰して単行本として出版したのである。
毎日の投書をタイプで打つときにカーボンコピーを取っておいたから。
私はこの話を聞いたときに、「はた」と膝を打った。
この手があったか。
ご存知のとおり、『ためらいの倫理学』以来の私の著作の過半は、ネット上で既発のテクストを採録したものである。
私はこのシステムをひそかに「バーナード・ショー方式」と名づけている(というのは嘘で、いま思いついたんだけど)。
現在進行中の『悪い兄たちが帰ってきた』はブログに連載して、『ミーツ』で編集して、出版社から単行本で出すことになっている。
ブログ日記本体のエッセイは文春のヤマちゃんが面白そうなものを拾い集めて単行本にするべく編集中である。
「チャイナ・スタディーズ」はNTT出版から『街場の中国論』として出版が予定されている(まだ始まってもいない演習の講義録を青田買いするM島くんもまことに豪放な人物であるが)。
ブログはカジュアルなメディアだからメモ代わりにガンガン書いて、ガンガン棄てるというテクスト戦略もあるし、カジュアルなメディアだからこそ、それを「丁寧に使って、無駄を出さない」というやり方もある。
私はことばというのは単なる「メッセージの運搬基」ではなく、それ自体がある種のフィジカルな力を持っていると考えている。
その「フィジカルな力」は、繰り返し舌先で転がし、筆先でこねまわし、修辞に配慮し、韻律を調音してるうちに、しだいに書き手の意図を離れたところにゆっくりと向かってゆく「本然の趨向性」を蔵しているような気がする。
気がするだけですけど。
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