演習が三つ連続すると、さすがに疲れる。
でもうまく時間割が組んであって、最初が三、四年生対象のフランス語ゼミ。次が三回生の専攻ゼミ、最後が大学院の比較文化ゼミで、だんだん「楽になる」。
教員の中にも勘違いしている人が多いが、授業がいちばん楽なのは大学院である。
いちばんきついのは 1 年生の一般教養科目大教室講義である。
大学院は教師がじっと押し黙っていても院生や聴講生たちがそれなりのレベルの議論を進めてくれる。
一年生相手の講義では私語したり眠ったりしているテンションの低い学生たちを相手に、孤独な90分汗だくのステージ・パフォーマンスが要求される。
疲労度からいうと10倍くらい違う。
しかし、制度的には、大学院の授業は「ひとにぎりの選ばれた教師」しか担当することが許されない「高級な」教育活動であり、学部の講義は「非常勤任せ」でもよいランクの低い教育活動である、という厳然たるヒエラルヒーが存在する。
少なくとも、文部科学省の教員審査基準ではそうなっている。
ほんとうは話は逆で、大学院の演習は大学院出たての若手研究者でもなんとかなるが、一年生相手の大教室講義は新米教師にはきびしい負担である。
大学院は修士号、博士号を発行する課程だから、指導教員に専門領域についての十分な知見が必要だということはわかるけれど、それでも日々の授業そのものは「楽」なのである。
楽してごめんね。
今年の大学院の演習は「チャイナ・スタディーズ」である。
一昨年は「現代日本論」をやった。
そのときに一年間現代日本の諸相を検分してみて、日本近代の基軸がペリー以来の「日米関係」であるということが骨身にしみてわかったので、昨年は「アメリカ論」をやった。
そしたら、日本の21世紀の世界戦略を考えるときの基本的な外交スキームが「日米中」の三国関係であるということが骨身にしみてわかったので、今年は「中国論」をやることになったのである。
私はもちろん中国問題の専門家でも何でもない。
院生聴講生の中にも中国問題の専門家はひとりもいない。
全員素人である。
去年のアメリカ論もアメリカの専門家はひとりもいなかった。
でも、一年間ゼミをやってわかったのは、「全員素人」で「床屋政談」をやっていても、まったくカテゴリーもレベルも違うランダムなトピック(政治・外交から宗教・犯罪・食文化・性文化・家族・教育…)を毎週論じていると、「アメリカを読む筋目」というものがしだいにくっきり浮かび上がってきて、演習参加者の全員に共有されてくる、ということであった。
それは社会心理学的にいえば「アメリカの無意識」であり、人類学的にいえば「アメリカの基本構造」である。
そのときに、日本人のアメリカ研究の専門家、アメリカ・ウォッチャーの書くものにほぼ例外なく「無意識的なバイアス」がかかっているということもわかった。
このアメリカ専門家たちは、アメリカが世界の覇権国家であり、英語が世界の公用語であり、アメリカ経済が活動的であることから、個人的に「利益」を得ている。
それは彼と同程度にある国の文化に深く通暁している専門家、例えば、「モンゴル共和国ウォッチャー」が期待することのできない種類の「利益」である。
それゆえ、彼らは無意識的にその「利益」(それは具体的にはメディアからの出演依頼寄稿依頼の多さとか大学やシンクタンクからのポストのオッファーの多さというかたちで現れる)が今後も継続するとことを切望する。
つまり、アメリカ・ウォッチャーたちは、どれほど批判的なスタンスにある場合でも(むしろ批判的なスタンスにある場合こそ)「つねにアメリカが話題になること」を無意識的に切望するようになるのである。
そして、少し考えればわかることだが、ある国が「つねに話題になる」というのは、必ずしもその国が「よいこと」をなし続けるからではない。
アメリカが安定的に統治され、為政者たちが賢明で謙虚であり、経済が節度ある繁栄定を保ち、社会全体が穏やかな調和のうちにあるとき、「アメリカ専門家」に対する私たちの側からの需要は有意に減少するだろう。
そんな国のこと、別にどうだっていいからだ。
むしろ、その国が「劇的な愚行」や「劇的な失敗」を犯すことの方が「話題喚起力」は大きい。
その国が「他国から見てきわめて安全な国」であることより、「他国から見てきわめて危険な国」であることの方が、「話題喚起力」は大きい。
だから、アメリカ問題専門家たちは、アメリカが「劇的な愚行」や「劇的な失敗」を犯し、他国からみて「危険」な国になることを無意識的に欲望するようになる。
彼らは、その徴候を示すデータを選択的に収拾し、アメリカが実際にそうであると私たちが信じ込むように世論をリードし、アメリカが「よりスペクタキュラーな失敗」をする方向に棹さすべく、できる範囲での協力を惜しまないようになる。
どうしてそんなことを断言できるのか、と鼻白む人もいるだろうが、私自身が一年間アメリカ研究をやってきて、ちょっとだけ「専門家」になって、アメリカ本を出すことになったあたりで「私自身がそうなった」から身に染みてわかるのである。
「アメリカ本」を書いているうちに、アメリカが「賢明で温和な国」であることよりも「愚鈍で暴力的な国」であることから出版社も私もより多くの利益を得られるということに気がついた。
そのバイアスが必ずや私自身のアメリカ論の記述に影響して、ある種のデータを読み落とさせたり、形容詞の選択に関与したりしているに違いない。
そのことに気づいたのである。
これを私は「狼少年のパラドクス」と呼んでいる。
「狼が来た!」というのは村落の防衛体制整備の喫緊であることを告げる警世的・教化的アナウンスメントである。
しかし、繰り返し「狼が来た!」と告知しても村落の防衛体制の整備に人々が十分な関心を払わない場合、やがて少年は無意識的に狼がほんとうにやってきて村人たちを喰い殺すことを切望するようになる。
そのときこそ少年の予見の正しさが万人によって承認されるからである。
やがて、少年は、「狼が村を襲いやすい」ように、それと知らぬうちに、防壁の崩れを放置し、鶏や羊が無防備に歩き回るのを黙過するようになる…
この「狼少年のパラドクス」をまぬかれる「専門家」はおそらく存在しない。
どのようなイッシューの専門家であっても、それが「話題」になることで専門家自身が利益を得る場合、彼は必ず彼の専門分野の中心的ファクターが「より強い話題喚起力」を持つように無意識的に行動するようになる。
そして、「より強い話題喚起力」はしばしば「より悪い事態」によって引き起こされるのである。
私たちは今年中国問題に取り組む。
ねらいは去年と同じく、「中国の無意識」あるいは「中国の基本構造」とでもいうべき原型的なエートスを探り当てることである。
そして、その作業行程で私たちがいちばん気づかわなければいけないのは、情報の欠如や考察の不足ではなく、「中国問題がより〈喫緊で重要な〉マターになるように」問題そのものの「激化」を願ってしまう私たち自身の無意識的なバイアスをそのつど「勘定に入れる」ということである。
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(2005-04-13 11:07)