「強い政治的意見」と「弱い政治的意見」

2005-04-11 lundi

政治的なイシューについて書くと、コメントとトラックバックが急に増える。
隣国のことについて書くと、「私はあなたと意見が違う」ということを言ってくる人間の数がとくに多い。
私はこれを興味深い現象だと思っている。
私がアメリカやフランスの政治について書いたときには、たとえ自分と意見が違っても、とりわけ意見の違いを際だたせたいという意欲が湧かないが、隣国についての議論だと自説との違いを強調したくなる、というのはどういう事情によるのであろう。
たぶん人間の政治的意見には「強い政治的意見」と「弱い政治的意見」の違いがあるからだろう。
いずれも経験的知見や研究調査によって得られたデータや他のイシューについて論じたときの理路との整合性などを配慮して構築されているという点では変らない。
にもかかわらず、政治的意見のうちには「ぜひ言いたい」ものと「それほどでもない」ものの違いがある。
「できるだけ声高に主張し、できるだけ多くの方に承認していただきたい自説」と「まあ、これはあくまでぼくの個人的意見なわけで、みなさんが違う考えをおもちになっても、それはそれということで・・」の違い言ってもいい。
「強い政治的意見」というのは、その人にとって万人が傾聴すべき「公論」として観念されており、「弱い政治的意見」というのは、別に誰に知られることなく終わっても別に構わない「私見」として観念されている。
そして、彼の政治的意見が「公論」であるか「私見」であるかの差別化は、その意見に十分な資料的基礎づけがあるかどうかや論理的整合性があるかどうかにはかかわらない。
十分な資料的裏づけがあり、論理的に首尾一貫しているが「あえて私見にとどまる政治的意見」というものがあり、それとは逆に、情緒的で論理的に混乱しているにもかかわらず「公論としての威信を要求する政治的意見」というものがある。
中国と韓国・朝鮮については多くの人が「強い政治的意見」を語る傾向にある。
ことこの問題になると、「これはあくまで私の個人的な意見ですが…」というふうに控えめに自己限定し、できるだけ他人の意見に耳を傾けるようとすることがむずかしくなるのである。
「強い政治的意見」は、他の意見に対して非寛容で、おのれ客観性を過大評価する傾向にある。自説と異なる立場との「対話性」や「開放度」がいちじるしく限定される。
私はこのような言説生産のプロセスそのものに一抹の不安を感じるのである。
というのは、まさにこれらの「強い政治的意見」がきわだった仕方で現れるのは、「自分と異なる政治的立場との対話性や開放度がいちじるしく低められた政治的関係」が論件になる場合においてだからである(ややこしい言い方ですまない)。
中国・韓国・朝鮮との政治的関係はそれぞれの国が「自分と異なる政治的立場」を配慮したり、「先方のご事情」を察知したり、未来に対して開放的なヴィジョンを構築しようという意欲が各国国民においても政府間においても、きわだって低い関係である。
そう申し上げてよいだろう。
そのような「対話性も開放度も低い政治的関係」についてコメントする人々が「対話性も開放度も低い意見」を語り続ける。
そういう言説生産が構造化されている。
その結果がどうなるか。
考えるまでもない。
ますます対話の可能性は低くなり、コミュニケーションのチャンネルは狭隘なものになる他ない。
その結果、それらの言説によって形成される世論の圧力に応じて、政府間の関係も一層排他的・非妥協的なものになる。
そのようにして一層排他的・非妥協的になった政治的関係についてコメントする言説は当然ながらますます「政治的に強いもの」になる。
そして…(以下同文)
私はこの悪循環をどこかで打ち切るべきだと考えている。
もちろん一気にことが解決するような魔法を私が知っているわけではない。
でも、とりあえず一つだけ方法がある。
それは、「排他的・非妥協的な政治的関係については、『弱い政治的意見』を語る」というルールを自らに課すことである。
「強い政治的対立」についてコメントするときには、あくまで「私見」の水準にふみとどまり、「公論」の地位を要求しないこと。
その節度が思いがけなく重要ではないかと私は思っている。
その「自制のルール」がある程度の範囲に共有されたときに、はじめて「強い政治的対立」から「弱い政治的対立」へのシフトの可能性が見えてくる。
私はそんなふうに考えている。
しかし、そういう私の考えに同意してくれる人は少ない。
驚くほど少ない。
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