反日デモの伝える声

2005-04-10 dimanche

中国で反日デモが激化している。
北京の日本大使館に投石がされ、大使館公邸や日本企業の入っているビルのガラスも割られ、日本料理店が襲われた。
これだけの規模の反日デモが行われたのは、72年の日中正常化以後はじめてのことである。
小泉首相の靖国参拝、歴史教科書問題、領海問題などの政治問題で対日感情が悪化しているということが繰り返し指摘されている。
しかし、多くの中国ウォッチャーが言うように、現在の反日機運を中国人の総意であるとか中国政府の外交カードであるとか考えるのは控えた方がいいだろう。
日本のなんらかの具体的な政治的アクションに対する批判であるというよりも、この反日気運はこういってよければかなり「記号的なもの」であるような気がする。
つまり、それは「そうすることによって、あなたは何を言いたいのか?」という問いを引き出すための誘発性のメッセージであるように私には思われる。
こういう問題を考えるときにいつもそうするように、私は立場を換えて考えてみる。
もし、私が中国の大学の教員であり、(日本における私と同じく)「愛国者」ではあるけれど、政府の方針やマジョリティの心情とは必ずしも一致しない政治的意見の持ち主であるとしたら、この「チャイニーズ・ウチダ」の目に日本政府と日本人はどんなふうに見えるだろう。
これはどなたが想像してもだいたい答えはひとつところに落ち着くだろうと思う。
それは「何を考えているのか、わからない」である。
小泉首相にしても町村外相にしても、中国政府に対して言っていることは「原則的にこれまで日本政府が言ってきたことの繰り返し」であり、べつに新味があるわけではないと同様、とくに危険で挑発的なことを言っているわけでもない。その限りでは、「どうしてこれまでと同じことを言っているのに、急に怒り出すんだ。中国人は何を考えているのか、わからんね」というふうに首相や外相が思ったとしても不思議はない。
でも、テレビの画面で中国問題についてコメントするときの日本の政治家の顔つきと声を「中国人になったつもりで見ると」、日本人には感知されない種類の「薄気味の悪さ」がそこに出現してくる。
そこには自分の政治的メッセージを中国の人々に「理解してもらいたい」という思いがまったく感じられないからである。
死んだ魚のような目をした人間がうつろな目を中空にさまよわせながら、「ぼくの気持ちをわかってください。あなたを愛しているんです」とせりふを棒読みにしてみても、たぶん彼の気持ちを理解したい気分になる人はいない。
「だから、『悪かったって』謝ってんだろ。ったくよお」
というような「謝罪」をにこやかに受け容れる気分になれる人間はいない。
それに似ている。
言っている「コンテンツ」には特に破綻がない場合でも、メッセージをつたえるときの「マナー」が「コンテンツ」を理解しようとする受信者の意欲を致命的に損なうということはありうる。
中国問題についてコメントするときの日本の政治家や政論家に感じるのは、この「マナー」への配慮の(ある人間においては意図的な、ある人間においては無意識的な)欠如である。
中国の人々はこの「メッセージのコンテンツとそれを載せるマナーの間の乖離」に「薄気味悪さ」を感じているのではないか。
私はそんなふうに思われる。
靖国神社問題にしても、歴史教科書問題にしても、私はある種の愛国主義的心情がそういうかたちでコントロールを失って露出することは「ありうる」と思っている。多様な政治的意見が併存することに私は反対しない。それが政治的に非常に危険なものになるのでない限り、私自身はあまりナーバスにはならない。
しかし、現に多くの中国人がこれらの問題でナーバスな反応をして「日本の再軍国主義化」や「植民地主義的侵略」について「本気で」危機感を募らせているとしたら、これは真剣に考えるべき問題だろう。
日本が再軍国主義化して、植民地主義的な侵略を行うことを支援する国は国際社会には存在しない。
アメリカもEUもASEAN諸国もロシアも誰も日本の軍国主義化を支持しない。
国際社会に誰も支持者のいない外交的オプションをあえて選択して、国運をかけてそれを貫徹するだけの政治力も信念も日本政府は持っていない。
これは断言してもいい。
国内的にはどうか。
国歌や国旗へ敬意を払えとか、教育基本法の改定とか、一部の政治家があらわに右傾化していることはまぎれもない事実である。だが、これが軍国主義化するところまで行くという判断に私は与しない。
刻下の経済状態で軍事強化を政治的な優先課題とするということは、社会的インフラ整備も教育も福祉も保険も年金もぜんぶ「後回し」にして、国民の物質的・精神的窮乏を代償にして軍事的威信を構築すること、つまり日本を「北朝鮮化」するということである。
このような政治的選択を掲げる政党が総選挙で日本国民の過半数の支持をとりつけられるという見通しに私は与しない。
ネット上で好戦的なナショナリズム言説を吐き散らしている若者たちは「徴兵制」の施行を求め、彼ら自身が一刻もはやく入営して青春の日々を軍事教練で過ごしたいと切望しているというふうに私は考えない。
つまり、国際社会も国内的状況も、日本が軍国主義化し、植民地主義的な侵略を展開する客観的情勢にないということが冷静に考えれば誰にもあきらかであるにもかかわらず、中国の人々がなおそのような政治的オプションへの道を進む日本のすがたを想像することを止められないとするならば、理由はたぶん一つしかない。
それは、日本の政治家の対中国メッセージに「なんだか薄気味が悪いもの」が伏流していると彼らがいつも感じているからである。
おそらく日本人政治家が無意識的に垂れ流している「なんだか薄気味が悪いもの」を平均的な中国人は彼らの「既知」に還元することで、名付けようとしているのだ。
そのときに呼び出される「既知」がおそらく「日中戦争の記憶」なのである。
日本人が中国にもたらした最悪の災禍に同定することで、この「なんともいえない薄気味の悪さ」は具体的なイメージに置き換えられる。
そうやって、「最悪の事態」を想像することで、彼らは「納得」しようとしている。
たぶん。
中国や韓国に対するときの日本の政治家や官僚の「木で鼻をくくったような」非人称的な語り口が隣国ではげしい反発をまねくのは、言っている「内容」以上に、その「語り方」に対話への志向が欠けているからである。
私はそう考えている。
すべての国には「刺さって抜けないとげ」がある。
アメリカとイギリスは「旧宗主国」と「植民地」の関係であり、独立戦争のときの血なまぐさい殺し合いをアメリカ国民も英国民もたぶん忘れてはいない。
そのアメリカでは北部諸州と南部諸州は国土を二分して壮絶な南北戦争を戦った。戦闘が終わったのは明治維新のわずか3年前のことである。
フランスとドイツは普仏戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と国境をはさんで両国とも数十万から数百万人の戦死者を出す殺し合いを 80 年間に3回経験した。しかし、その両国のパートナーシップがいまのEUの核になっている。
どこでも「とげ」は抜けていない。
しかし、今のところ、英米間や独仏間あるいはアメリカの南北州間で「怨念」や「謝罪」についての感情的な議論が前景化する見通しはない。
過去に抑圧的な植民地支配があり、抑圧があり、差別があり、殲滅戦に近い殺し合いがあっても、そのあとに親しい同盟関係や共同体を構築することは可能である。そのことをこの歴史的事実が証明している。
だが、日本と隣国のあいだには、それができない。
とすれば、それは「事実」のレベルの問題にはないということである。
条約の整合性や外交戦略の首尾一貫性とはかかわらない次元の問題だということである。
それは「過去の事実」をどのような政治史的文脈のうちに位置づけるかにかかわる共同的なヴィジョンの次元、政治的幻想の次元の問題である。
日本の政治家にはそのようなヴィジョンがない。
彼らは過去の政府見解を棒読みで繰り返す。
彼らが政府見解を棒読みするのは、もし彼らの外交戦略が失敗しても、それは過去の政府の責任であり、彼らの責任ではないと考えているからである。
このメンタリティは不良債権で銀行をつぶした経営者や、在任中に事件化しなければいいと不祥事も申し送りして退職金を受け取って逃げ出した多くの企業経営者と似ている。
ほとんど同じと申し上げてよい。
私たちの国の何年か前の首相は、自分が受け取った1億円の政治献金について「忘れた」と言い続けて刑事訴追を免れるつもりでいる。
「責任を取りたくない」というのがこの人物の政治戦略の基本である。
この元首相をかばいつづける現在の為政者たちもきっと本質的には彼の同類であろうと私は思っている。
「責任を取りたくない」人間が語ることばを隣国の人々に「未来をひらく対話のためのシグナル」だと信じさせることはたいへんに困難である。
絶望的に困難であろうと思う。
中国の「反日デモ」は記号的な出来事ではないかと私は最初に書いた。
それは「そうすることによってあなたがたは何を言いたいのか?」と私たち日本人が問うことを求めている。
私はそう思っている。
そして、私が聴き取った彼らからの声は「日本人よ、私たちに届く声で語ってはくれまいか?」というメッセージである。
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