『ミリオンダラー・ベイビー』と憲法九条

2005-04-06 mercredi

サラリーマン出勤状態になったら、すごく疲れた。
拘束時間が長くなっただけで、別にエクストラの仕事が急に増えたわけではないのだが、「慣れないことをすると、疲れる」ということのようである。
六時まで仕事をして、オフィスを出て、梅田へ行く。
クリント・イーストウッド、ヒラリー・スワンク、モーガン・フリーマンがアカデミー賞4部門を制覇した『ミリオンダラー・ベイビー』の試写会。
アカデミー賞で話題になったので、公開が早まり、試写会も前倒しになったようである。
読賣のタニグチさんのご案内で、ウッキーおいちゃん白川さん中瀬さんら「合気道系秘書」四名を伴って梅田ピカデリーへ。
仕事の帰りにスーツ姿で映画を見に行くなんて、神南坂のアーバン以来20年ぶりくらいのことである。
試写会というのも、数えてみたら、生まれて4回目である。
3回目は二日前の東映本社の『コンスタンティン』、2回目は去年秋のフェスティバル・ホールの『ヴァン・ヘルシング』、1回目は1966年に誰かにもらった試写会チケットで行った、ジュリー・クリスティとローレンス・ハーベイの『ダーリン』(これは赤坂のTBSだったから、高校の友だちがチケットをくれたのかもしれない)。
30 年間に4回しか試写会に行ったことのない人間が「映画評論家」を名乗るというのもずいぶんな話である。
私は年間300本の映画を観る「映画番長」(@タニグチ)であるが、そのうちの298本くらいは自宅でビデオかDVDで、もはやメディアが話題にしない古い映画を見ているのである。
『ミリオンダラー・ベイビー』の観客たちは終演後もしばらく「ショック」で(どういう種類のショックであったかはなんとなく想像がつくが、それは言わぬが花というものであろう)立ち上がれず、暗い顔つきでとぼとぼと10階からの階段を降りていった。
素晴らしい映画であったと思う。
私は「ヒラリー・スワンクとチャン・ツィイー」が mes actrices favorites の人であるから、ヒラリー・スワンクが画面に出ているだけですでに上機嫌である。
でも、そういう観客はあまりいないようである。
『コンスタンティン』の映画評は来月の『エピス』に載るが、これは「『ぜんぜん似てない何か』に似ていると思ったら、村上春樹の『アフターダーク』とまったく同じ話であることに気づきました」で始まる。
『ミリオンダラー・ベイビー』の映画評はその次の月の『エピス』に出ることになるはずだが、これは「『まるでそっくりの話』があるなと思ったら、『あしたのジョー』とまったく同じ話であることに気づきました」で始まる予定である。
私の映画評が活字になる前に、当然にも映画評論家のどなたかが「これって、まるっと『あしたのジョー』じゃないか!」と言うと思うけれど、私もそう思ったので、まねしたんじゃないからねということをここで確認しておきたい。
ピカデリーを出て「亀寿司中店」に行ったらお休み。
ふらふらさまよっていたら、その昔ゼミのイシモリくんが連れて行ってくれた霧笛楼という居酒屋の前に出たので、そのままそこに入って、タニグチさんウッキーおいちゃんと、どの点が『あしたのジョー』かについて仔細な検討を行う。

爆睡して起きたら 9 時間眠っていた。
どうも、本格的に疲れているらしい。
スーツとネクタイとめくらばん(て使用禁止用語なのかな…とすると『無責任一代男』も放送禁止か)で疲弊し果てたのである。
よろよろと起きあがり、下川先生のところのお稽古に出かけて、たいへん真剣に舞囃子を舞う。
今日は徹底的にしごきますと宣言していた下川先生が一回だけ通して舞ったところで、「うむ、よくお稽古してきましたね」とお許しくださる。
実は「内臓を動かして不安定状態を作り、その不安定を解消するように歩を進める」という運足をこのところひそかにお稽古の課題としているのである。
「キネステジー仕舞」である。
どうやらなかなか汎用性の高い技法のようである。
家に戻ると文藝春秋の『諸君!』から憲法九条改正についてのアンケートについての問い合わせが来る。
昨日電話でオッファーを受けたので、「本務以外の原稿はもう書きません」と申し上げたら、「アンケートはどうですか」とおっしゃるので、アンケートに回答するくらいなら、とご返事したのである。
私は繰り返し書いているように九条の改定には反対する「護憲」の立場の人間である。
『諸君!』というのはコンサバ系の雑誌なので、私のような護憲の人間の意見なんか載せて「浮きませんか」とお訊ねする。
別に浮いても構わないという寛容なご返事だったので、『諸君!』の一部読者が怒り狂って「もうこんな雑誌二度と買わんぞ!」と天を仰ぐような原稿をさらさらと書く。
私の主張は単純である。
『東京ファイティングキッズ・リターン10』に書いたとおり、私は政治的信条の重みは語る人間がその信条にどこまで身体を賭けているかによってかたちづくられると思っている。
簡単に言えば、税金の使い道について論じる人間は税金を払っていなくてはいけないということである。
九条の改訂を求める人々は「戦争をしてもいい条件」をクリアーにすることをめざしている。
その場合は、政論を語る人間は「戦争をしている自分」を勘定に入れる必要があるだろう。
仮にその理路がロジカルにそれなりの説得力があるとしても、その人自身が戦場で人を殺し自分も殺される未来の風景をリアルに想像しえた上でそのことばを口にしているのでないならば、私はそのような政治的言説には耳を傾ける気はない。
森喜朗はたぶん自分が戦場で殺される可能性について一度も想像しないままに憲法改定を論じている。
「ときには血を流す必要がある」と熱く語る政治家が描いている「血」はたいていの場合彼自身の血ではない。
仮にもし今アメリカ合衆国憲法に「九条」があり、ジョージ゙・W・ブッシュが「九条第二項の廃絶」と自衛のための戦争の合法化を提言したときに、アメリカ国民は「徴兵を逃れるためにテキサス州軍に入って、そこからも任務を離脱した」大統領のことばに説得されるだろうという判断に私は与しない。
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