教務部長最初の説教

2005-04-05 mardi

ようやく教務部長デスクのパソコンがインターネットにつながった。
さっそく最初のエントリを新しいパソコンから投稿することにする。
メールはまだできない。
パスワードを忘れたからである。
忘れたというのは正確ではない。
「KC-Net のパスワード」という手帖に控えてあるパスワードを打ち込んでも「ログイン拒否」されたというだけのことである。
私が間違ったパスワードを打ち込んでいるのか、それともシステムが誤作動しているのか。
かかる選択に際して、私は決して迷うことがない。
ことコンピュータに関する限り、つねに間違っているのは私だからである。
情報処理センターにパスワードの再発行を申請にゆく。
再発行を申請するのは二度目である。
新しいパソコンを購入し、新規にメールの設定をするたびに、私がパスワードだと信じているものはシステムによって拒絶される。
私のパスワードが生命を得て、闇夜にまぎれて自律的な変化を遂げていると聞かされても私は驚かない。

新入生諸君の前で、教務部長訓話というものを行う。
持ち時間20分。
新入生諸君に申し上げたいことが二点ある。
ひとつは大学においては「自学自習」ということが勉強の基本スタイルである、ということである。
いまひとつは大学における教育を商取引のメタファーで構想してはならない、ということである。
文部科学省の定めるところの大学卒業必要最低単位数は124である。
諸君はこれを四年間において履修せねばならない。
そのことは学習便覧に書いてあるから、諸君もご承知であろう。
しかし、諸君は1単位というのがどういう概念であるかをご存知であろうか。
おそらくご存知あるまい。
単位とは、センチやグラムと同じ国際共通の度量衡なのである。
知らなかったでしょ。
1単位とは45時間の労働のことである。
労働者が月曜から金曜まで一日8時間、土曜日に半ドン5時間労働するとして、その総和が45時間。
つまり、一週間にひとりの労働者が働く労働量をもって1単位と呼ぶのである。
学生の場合はどうか。
通常は、週1時間の授業を15週間受講すると1単位が授けられる。
計算が合わないね。
1×15=15
どう計算しても45時間にならない。
あとの30時間はどこへ行ったのか?
驚くなかれ、諸君。
大学生が教場で過ごす15時間に対して、1単位が与えられるのは、大学生が「1時間の授業について1時間の予習と1時間の復習を必ず行う」からである。
教場ですごす1の授業の準備と咀嚼に、つねに教場外で2の学習を割く用意のあるもの。
それが「単位」という語の前提をなすところの「大学生」の定義なのである。
大学とは「自学自習」を基本とするところである、と私が申し上げた理由がお分かりになるであろう。
諸君が124単位を履修して「学士号」を取るということは、きわめて散文的に言えば、45×124=5580時間の学習を行ったという「事実」の記号である。
そして、その事実を検証する外形的な制度は存在しない。
その事実を証明するのは、諸君自身だからである。
大学生とは、おのれの得た「学士号」の価値を、誰でもないおのれ自身で証明し、基礎づけることができなければならないし、できるものとみなされている。
国際共通規格としての「学士号」の意味はそこにあり、そこにしかない。
日本の大学生で国際共通規格に照らして、「学士号」に値するものは数%にも満たないであろう。
ドメスティックな基準での学士号はたしかにそのような内容をもっていない。
しかし、諸君がインターナショナルな基準でも「学士」と呼ばれるに値するものになりたいと望むなら、少なくとも個人的には国際共通規格を自らに適用することをめざすべきであろう。
大学生とは「自学自習するもの」であると私はさきほど申し上げた。
それはいいかえると、自分の得た学位の価値を、卒業証明書や免状によってではなく、おのれ自身の知的能力をもってその場で証明しうるものという意味である。
諸君の健闘を祈る。
「大学教育を商取引のメタファーで語ってはならない」という第二の忠告も第一の「単位」にかかわる忠告におとらず重要であり、大学教育全体はそれに基づいているのであるが諸君も説教でもう腹いっぱいであろうから、また次の機会にたっぷりお聞かせするのである。
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