あなたの隣人を愛しなさい

2005-04-04 lundi

入学式。
寒さ続きで、桜は間に合わないと思ったが、なんとか今日は三分咲き。
入学式・卒業式において、学院標語「愛神愛隣」のことばしるされている聖書の箇所を拝読するのは教務部長の仕事である。
朝、学校に行くと、いろいろな方から「ウチダ先生、聖書読む役なの、ご存じですよね?」と訊かれる。
よほど粗忽な人間だと思われているのであろう。
中には、「やだー、先生、聖書読まはるのー」といきなり笑い出す者もいる。
ずいぶんではないか。
私とてすでに本学に奉職すること十余年。
聖書に親しみ、賛美歌を歌い、合気道の合宿では食前の祈りを捧げ、蔦の絡まるチャペルで神に祈ったこととて少なからずある。
先年などは、六甲セミナーハウスにおいてありうべき高等教育について熱弁をふるったところ、感動した I チャプレンより「あなたがたこそ真のクリスチャンです」とウーロン茶による「洗礼」を受けたことだってあるのだ(そのときにはマルクシストである “ワルモノ” I 川先生も私といっしょにおとなしく「洗礼」を受けたのである)。
式次第に従い、賛美歌412番を歌ったあとに、マタイによる福音書22:34-40を恭しく奉読する。
ご存じない方も多いが、私は「こういうこと」をやらせるとうまい人間なのである。
「こういうこと」というのは、話者と聴衆のコヒーレンスを合わせる、ということである。
つねづね申し上げているように、コミュニケーションの成立にとって「コンテンツ」は副次的な意味しかもたない。
「これはパロールだ」ということを聴き手が実感すれば、そのとき私がどのような意味不明のことばを口にしていても聴衆はそれを「パロール」として聴き取ることができる。
こんな話がある。
オデュッセウスの仲間たちはその冒険の途中で、豚に姿を変えられてしまった。
彼らは豚小屋でブーブーと悲しく泣き続けて、オデュッセウスになんとかメッセージを届かせようと試みた。
オデュッセウスはやがてその豚たちが彼の仲間たちであることに気がつく。
さて、どのような条件が整ったときに、オデュッセウスは豚の鳴声を「仲間からのメッセージ」として聴き取ることができるようになったのか?
ラカンはあるみぶりや音声が「メッセージ」として聴き取られるための条件をこう記述する。

「豚のブーブーという鳴き声がパロールになるのは、その鳴き声が何を信じさせようとしているのだろうかという問いを、誰かが立てる時だけです。パロールは、誰かがそれをパロールとして信じる正にその程度に応じてパロールなのです。」(「パロールの創造的機能」、『フロイトの技法論(下)』)

豚は「ぶーぶー」言っているだけである。
しかし、この鳴声をオデュッセウスは「パロールかもしれない」と信じた。
では、いったい豚の鳴声の中のいかなる要素が、オデュッセウスをして「これはパロールかも知れない」という問いへと差し向けたのか?
答えは、豚の鳴声には「オデュッセウスと豚のあいだのコヒーレンス」を成立させるようなある種の力があったから、である。
豚たちの声は「たたひとつのこと」だけを伝えることに全力を注いでいた。
そして、それは正しく伝わった。
豚が理解されるはずのない鳴声を通じて伝えようとしていたメッセージはただひとことに尽くされる。
それは「私たちは人間です」である。
私が入学式で聖書を拝読しているとき、聖書を読む訓練を受けたことのない多くの新入生にとって、その聖句の「コンテンツ」を語義的に理解することはむずかしかっただろうと思う。
でも、聖書を読み上げながら、私が彼女たちに送った「たったひとつのメッセージ」を受信することはそれほどむずかしくはなかったはずである。
私は「君たちを愛している」というメッセージを送った。
そして、彼女たちが今日から私にとっての「隣人」となる以上、そのメッセージを受信してくれた新入生は、聖句の「コンテンツ」をも同時にまたただしく聴き取ってくれたことになるのである。
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