ニーチェの超人道徳は現代の倫理に二つの重要なアイディアをもたらした。
ひとつは、倫理を静態的な「善い行為と悪い行為のカタログ」としては定立せず、「いま、ここにおける倫理的なる行動とは何か?」という問いを絶えず問い続ける休息も終わりもない絶望的な「超越の緊張」として、ひたすら前のめりに走り続けるような「運動性」として構想したことである。
いまひとつは、倫理を、万人がめざすものではなく、「選ばれたる少数」だけが引き受ける責務として、「貴族の責務」(noblesse oblige) として観念したことである。
ニーチェはこう書いている。
「高貴であることのしるし。すなわち、われわれの義務を、すべての人間に対する義務にまで引き下げようなどとはけっして考えないこと。おのれ自身の責任を譲り渡すことを欲せず、分かち合うことをも欲しないこと。自己の特権とその行使を、自己の義務のうちに数えること。(…) こうした種類の人間は孤独というものを知っており、また孤独がいかに強烈な毒を含んでいるかを知っている。」(『善悪の彼岸』)
義務についての激しい使命感、それが「孤独な」少数者にのみ求められていることについての自覚。このような意識のあり方を仮に「選び」(élection) の意識と呼ぶことにする。「選ばれた」人間は、倫理的な責務を「すべての人間に対する義務」にまで拡大することを求めない。それは彼ら「だけ」に求められている義務である。彼らに課せられた責務は「譲渡不能」であり、「分割不能」である。そのように過大な責務を割り当てられているという事実が、倫理的主体を「高貴」なものたらしめる。
このニーチェの考想は、オルテガにも部分的には受け継がれている。
ニーチェとオルテガの分岐点は、この「選ばれてあること」とは「他の人々よりも多くの特権を享受すること」とか「他の人々よりも高い地位を得ること」、つまり「奴隷」に対する「主人」の地位を要求する、というかたちをとらない点にある。それどころか、彼らにとって「選ばれてあること」の特権とは、他の人々よりも少なく受け取ること、他の人々よりも先に傷つくこと、他の人々よりも多くを失うこと、という「犠牲となる順序の優先権」というかたちをとる。
ニーチェが貴族の復権をむなしく説いてから30年後の大戦間期に大衆社会のあり方を冷徹に分析した一冊の書物が公刊された。
その書物が「超人道徳」と「倫理なき時代」を結ぶ、重要な論理的架橋を提供してくれる。
大衆社会論の古典とされるオルテガの『大衆の反逆』はニーチェが「蓄群」という名で罵り続けた社会階層「大衆」(masse) が、テクノロジーの進歩と民主主義の勝利によって、社会全体を文字通り空間的に占有するにいたった状況をかなり悲観的に論じた書物である。
だが、この中でオルテガはニーチェとは別の大衆社会論を展開する。
それは、社会を「大衆」と「エリート」に二分し、「大衆」を徹底的に批判し、「選ばれたる少数派」の高い倫理性に人間社会の未来を託そうとする考想であるというふうに読まれてきた。
オルテガをそういうふうに読んだ左翼的な知識人たちはこれを「エリート主義」あるいは「貴族主義」として批判の十字砲火を浴びせた。
しかし、すでに述べたように、私たちはオルテガの「精神の貴族主義」とニーチェの超人思想は似ているけれど、まったく別ものである思う。
オルテガは大衆社会の本質をこう語る。
「他人と違うのは行儀が悪いのである。大衆は、すべての差異、秀抜さ、個人的なもの、資質に恵まれたこと、選ばれた者をすべて圧殺するのである。みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、排除される危険にさらされている。」(『大衆の反逆』)
たしかにこの「大衆」は相互模倣を原理としている集団であるという点で、ニーチェの「蓄群」に似ている。しかし、彼らの精神構造は、強圧的な支配者(「父」)を自己の外部に想定し、それへの隷従を幸福と感じる「奴隷」のそれとはかなり様子が違う。というのは、「大衆」らは近代のテクノロジーが可能にしたさまざまな物質的利便さと、民主政治によって提供された人権のおかげで、きわめて快適に生活を過ごしているからである。彼らの欲望は着々と充足されており、この欲望充足の営みを規制しようとするものにはなんであれ(たとえ「父」からの強圧的命令であれ)大衆はまるで従う気がないからである。
「いま分析している人間は、自分以外のいかなる権威にもみずから訴えるという習慣をもっていない。ありのままで満足しているのだ。べつにうぬぼれているわけでもなく、天真爛漫に、この世でもっとも当然のこととして、自分のうちにあるもの、つまり、意見、欲望、好み、趣味などを肯定し、よいとみなす傾向をもっている。(…) 大衆的人間は、その性格どおりに、もはやいかなる権威にも頼ることをやめ、自分を自己の生の主人であると感じている。」
「勝ち誇った自己肯定」はニーチェにおいては「貴族」の特質とされていた。オルテガにおいて、それは「大衆」の特質とみなされる。
ニーチェの「蓄群」は愚鈍ではあったが、自分が自力で思考しているとか、自分の意見をみんなが拝聴すべきであるとか、自分の趣味や知見が先端的であるとか思い込むほど図々しくはなかった。ところが、オルテガ的「大衆」は傲慢にも自分のことを「知的に完全である」と信じ込み、「自分の外にあるものの必要性を感じない」まま「自己閉塞の機構」のなかにのうのうと安住しているのである。
ニーチェにおいては貴族だけの特権であったあの「イノセントな自己肯定」が社会全体に蔓延したのが大衆社会である。
自己肯定と自己充足ゆえに、彼らは「外界」を必要としない。
ニーチェの「貴族」は「距離のパトス」をかき立ててもらうために「劣等者」という名の「他者」を必要としたが、オルテガの「大衆」はそれさえも必要としない。彼らは「外部」には関心がないからだ。
「今日の、平均人は、世界で起こること、起こるに違いないことに関して、ずっと断定的な《思想》をもっている。このことから、聞くという習慣を失ってしまった。もし必要なものをすべて自分がもっているなら、聞いてなにになるのだ?」
いまや大衆が権力者として「判断し、判決し、決定する時代」なのである。彼らは彼らの判断の妥当性を基礎づける上位審級をもう要請しない。
「サンディカリズムとファシズムの種族のもとに、はじめてヨーロッパに、理由を述べて人を説得しようともしないし、自分の考えを正当化しようともしないで、ひたすら自分の意見を押しつけるタイプの人間が現れたのである。(…) 理由を持たない権利、道理のない道理である。」
自己充足と自己閉塞のうちにあるこの大衆の対蹠点に、オルテガは「エリート」を対置する。「エリート」というのは、まことに誤解を招きやすい語だけれど、オルテガによれば、その特性は自己超越性と自己開放性にある。
「すぐれた人間をなみの人間から区別するのは、すぐれた人間は自分に多くを求めるのに対し、なみの人間は、自分になにも求めず、自己のあり方にうぬぼれている点だ、(…) 一般に信じられているのとは逆に、基本的に奉仕の生活を生きる者は選ばれた人間であって、大衆ではない。なにか卓越したものに奉仕するように生をつくりあげるのでなければ、かれにとって生は味気ないのである。(…) 高貴さは、権利によってではなく、自己への要求と義務によって定義されるものである。高貴な身分は義務をともなう。」
なぜエリートが存在しなければならないのか。
オルテガはその問いに「野蛮」への退行を阻止するため、と簡単に答える。
大衆社会とは、自己満足、自己閉塞というふるまいの結果、個人が原子化し集団が砂粒化した状態である。この「分解への傾向」をオルテガは「野蛮」と呼ぶ。
「あらゆる野蛮な時代とは、人間が分散する時代であり、たがいに分離し、敵意をもつ小集団がはびこる時代である。」
私たちの時代における終わりなきテロリズムや血腥い民族的宗教的対立やジェノサイドを駆動しているのは、「純粋」化、「純血」化、つまり同質な者たちだけから成る閉鎖的集団への細分化の指向である。
そこで求められているのは、排除であり、差異化であり、断絶であり、内輪の言語である。そこには、自分とは異質な者と対話を試み、ある種の公共性の水準を構築し、コミュニケーションを成り立たせようとする指向が欠如している。
オルテガが「野蛮」と呼ぶのは、このような「内側」に向けた過剰な親密感・一体感と「外側」に向けた常軌を逸した排他性・暴力性が混淆した集団心理である。
ほんらい、「文明」とは「自分とは違うもの」を同一の共同体の構成員として受け容れること、そのような他者と共同生活を営めるようなコミュニケーション能力を基礎にして構築される。
他者との共同生活を可能にするもの。それは愛とか思いやりとか想像力とか包容力とかいう個人レヴェルの資質ではない。そうではなくて、公共的な水準におけるコミュニケーション擬制である。
「手続き、規範、礼節、非直接的方法、正義、理性! これらはなんのために発明され、なんのためにこれほどめんどうなものが創造されたのだろうか。それらは結局〈文明〉というただ一語につきるのであり、〈文明〉はキビス (civis) つまり市民という概念のなかに、もともとの意味を明らかにしている。これらすべてによって、都市、共同体、共同生活を可能にしょうとするのである。(…) 文明はなによりも共同生活への意志である。」
「共同生活への意志」をもつもの、それが市民であり、オルテガはそれを「エリート」「貴族」とも呼ぶ。
オルテガによれば、「貴族」の条件をなすものは血統でも権力でも資産でも文化資本でも特権でもなく、「自分と異質な他者と共同体を構成することのできる」能力、「対話する力」のことである。
つまり、「貴族」とはその言葉のもっとも素朴な意味における「社会人」のことなのである。というより、社会とはほんらい貴族たちだけによって構成されるべきものなのである。
「社会は貴族的である限りにおいて社会であり、それが非貴族化されるだけで社会ではなくなるといえるほど、人間社会はその本質からして、いやがおうでもつねに貴族的なのだということである。」
これを読めば、オルテガの「エリート主義」がニーチェの「貴族主義」とまったく異質のものであることがわかるだろう。
ニーチェは「貴族」を定義するときに、それが「何でないか」という否定形を重ねることしかできなかった。ニーチェ的貴族の条件は最後には「人種」概念にまで矮小化した。
いっぽう、オルテガは、はっきりと「貴族」がなにものであるかを語る。
それは人間の特殊な形態ではなく、人間の「本来の」すがたである。
だから、すべての人間が貴族になり、市民になり、公共性を配慮し、奉仕の生活を生きるすがたを「文明」の理想としてオルテガは語ったのである。
ニーチェのことばに比べると、オルテガの理説は凡庸に聞えるかもしれない。
現に当時の左翼知識人たちは、オルテガが社会を「大衆」と「貴族」を二分して、少数派の「貴族」に未来を託すという、まったく歴史的階級状況を無視した政治的提言をなした反動的思想家とみなして、その主張を一笑に付した。
ただ、彼らは一つ重大なことを見落としをしている。
それはオルテガが「大衆」とか「貴族」と呼んだのは、人間の「集団」のことではない、ということである。
オルテガが「大衆」とか「貴族」と呼んでいるのは、一人の人間の中に存在する複数の「ファクター」のことである。
だからオルテガは大衆社会は「勝利と死」「繁栄と没落」を同時に意味しうる両義性を刻印されているということを執拗に主張するのである。
オルテガはひとりひとりの人間のうちには「大衆的要素」と「貴族的要素」の両方が備わっていると書く。
貴族的要素とは、「努力する生」のことである。
「私にとっては、貴族とは努力する生の同義語であって、つねに自分に打ち克ち、みずから課した義務と要請の世界に現実を乗りこえてはいっていく用意のある生である。」
すべての人間のうちには、「努力する生」の胚珠が、つまり「貴族の血」が含まれている。問題は、それをどうやって保持し、どうやって開花させるか、である。
「今日の大衆的人間を定義するためには、この人間を、かれのなかにまじりあっている純粋な二形態に分けてみなければならない。つまり普通の大衆と、本物の貴族、いいかえれば、努力する人間とを、対置しなくてはならない。」
こうなると話は俄然ややこしくなる。
「努力する人間」と「努力しない人間」を差別するのがメリトクラシーであるという話を前に書いた。
メリトクラシーが前提にするのは、すべての人間は「努力する能力が等しく備わっている」とういことである。
これに疑念をつきつけたのが苅谷剛彦さんの研究である、ということを前にご紹介した。
オルテガの洞見はもっと徹底している。
オルテガはただでさえ非平等に配分されている「努力する能力」そのものを組織的に破壊する制度として大衆社会をとらえたからである。
「誰だって努力すれば成功のチャンスはある」というお気楽なメリトクラシーのはるか手間で、オルテガは「努力する生」がいかにレアなものか、それを守り育てることがいかに困難であるかについて省察しているのである。
オルテガがたどりついた結論は「努力」とは「自分自身との不一致感」によって担保されるという、平明な事実であった。
おのれのうちに「埋めがたい欠落感」を抱いている人間はそれを埋めようとする。
「ことばにならない欲望」を抱いている人間はそれを「ことばにしよう」とする。
おのれのうちで「聞き慣れないことば」が語ることを知っている人間は、「聞き慣れないことば」を語る他者からその意味を知る術を学ぼうとする。
オルテガのいう「貴族」とは、畢竟するところ「自分のことがよくわからず、自分が何を考えているのか、何を欲望しているのか、ついに確信できない人間」のことである。
となると理論的には「大衆」とは「自分のことを自分はよくわかっており、自分が何を考えているのか、何を欲望しているか、しっかり把握している(と信じている)人間」であるということになる。
貴族とは「自分のうちに〈他者〉を抱え込んでいると思い込んでいる人間」であり、大衆とは「自分のうちには〈自分〉しかいないと思い込んでいる人間」と言い換えてもいい。
そして、話はさらにややこしくなるのだが、「自分のうちにかかえこまれた〈他者〉」というのは、実定的な存在ではない。
「私の中に〈他者〉がいる」というのは、「私の中に〈隣の山田さん〉がいる」というような単純な事態ではない。
「隣の山田さん」であれば、その人相風体思想性癖などについて調べればすべて知ることが理論的には可能である。
そんなものを私どもは〈他者〉とは呼ばない。
そうではなくて、「私の中に〈他者〉がいる」というときの〈他者〉というのは、「〈他者〉というような洒落た術語をつかって自分自身のありようについて語ってみても、そのことばがぜんぜん自分のなかの違和感をうまく記述していないことに当惑する」という「自己との不一致そのもの」のことなのである。
オルテガが「貴族」という語に託したのは、外形的な「人間類型」や「行動準則」のことではない。
そうではなくて、自分の行動もことばもどうしても「自分自身とぴたりと一致した」という感じが持てないせいで、そのつどの自分の判断や判定に確信が持てない。だから、より包括的な「理由」と「道理」を求めずにはいられず、周囲の人々を説得してその承認をとりつけずにはいられず、説得のために論理的に語り修辞を駆使し情理を尽くすことを止められない…
という「じたばたした状態」を常態とする人間のことをオルテガは「貴族」と言ったのである。
自分が単独で生きている経験そのものがすでに「見知らぬ人間との共同生活」であるようなしかたで複素的に構造化されている人間だけが、公的な準位で「見知らぬ他者との共同生活」に耐えることができる。
つねにためらい、逡巡し、複数の選択肢の前で迷う人間。
オルテガはそのような「複雑なひと」のことを「貴族」と呼び、「市民」と呼んだのである。
長くなりすぎたので、もう話をきりあげるが、最後にオルテガのたいへん心にしみいることばを採録しておこう。
「じっさいの生は、一瞬ごとにためらい、同じ場所で足踏みし、いくつもの可能性のなかのどれに決定すべきか迷っている。この形而上学的ためらいが、生と関係のあるすべてのものに、不安と戦慄という、まぎれもない特徴を与えるのである。」
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(2005-04-03 18:43)